境界線
エレベーターで上がっている間、俺は、ポケットの中のリストの名前を、心の中で一つだけ、選び直していた。結城宗一郎。中堅の広告代理店のプランナー。四十二歳。業界では「データの結城」と呼ばれる男。プレゼンで出すスライドの数字の切り取り方が、異様に説得力があると評判だった。普通なら俺のような平凡な営業が、直接会える相手ではなかった。今日、Aプロジェクトのリーダーとして、合同企画の打ち合わせの席に、俺は呼ばれていた。
扉が開いた。
受付の女性が、にこやかな笑みで俺を迎えた。
「お待ちしておりました、灰谷リーダー」
灰谷リーダー、という呼び方を、社外の人間の口から聞いたのは、今日が初めてだった。その四文字の響きが、自分の内側で、静かに、一本の弦を弾いた。俺はその弦を、表情には出さずに、受付の奥の会議室に向かって歩いた。
◇
結城は、長身で、細身のスーツをさらりと着た男だった。
会議室のテーブルの向こうに立ち上がり、片手を差し出してきた。俺は一歩踏み込んで、その手を握った。形式的な、商談前の握手。双方にとって、儀式以上の意味はない、はずの動作だった。
手のひらが触れた瞬間、流れ込んできたのは、折り畳まれた地図だった。
数字を眺めるときの、焦点の置き方。データの中の「外れ値」だけを瞬時に抜き出す、癖のような速さ。因果と相関を混同しない思考の骨。三つの要素を一つの文に畳み込む、説明の型。その全部が、薄い薄い一枚の紙のように、結城の手のひらから、俺の手のひらに、するりと折り畳まれて入ってきた。
俺は、手を離した。
離すとき、結城の指が、ほんの一瞬、俺の手の甲の上で、留まった。気のせいのような、微かな引っかかりだった。結城は何も感じていないはずだった。ただ、今、俺が味わった「流入」は、これまでの誰よりも、短く、鋭く、痛みにも似ていた。
「灰谷さん、お若いのに、ご活躍ですね」
結城が、そう言いながら席についた。
「いえ、たまたまです」
俺はそう答えた。答えながら、もう、「たまたま」という単語を使うときの、自分の声の響きが、少し不自然になっているのに気づいた。この単語は、本当の「たまたま」の人間が使ったときにしか、自然に響かない。俺はもう、それを知っていた。知っていて、使った。そのほうが、相手の警戒を解ける気がしたからだった。
打ち合わせは、一時間続いた。
最初の三十分で、俺は、結城の頭の使い方を、完璧に、自分のものにした。数字の切り口を、結城なら、こう見る。この図表の欠けているピースは、ここ。そういう発想が、俺の口から、よどみなく流れ出した。結城の眉が、二度、三度、少しずつ上がっていった。
帰り際、結城は、もう一度、俺の手を軽く握った。
「今日、すごく、勉強になりました」
彼はそう言った。勉強になった、と言うときの結城の声は、どこか、浮かない響きだった。自分の底が、一瞬で、相手に見えていた恐怖の響きだった。結城は、自分の何が奪われたのかは、知らなかった。ただ、何かが、奪われた感覚だけを、かすかに、感じ取っていた。
俺は、笑顔を作って、エレベーターに向かった。
向かいながら、俺は、自分の右手の指先が、心臓の鼓動と同じリズムで、かすかに脈打っているのを、感じていた。慣れていた。そして、慣れていることが、怖かった。怖さの中に、甘さが、混ざりつつあった。
◇
夕方、会社に戻って、自分の席に座ったとき、内線が鳴った。
「灰谷くん、ちょっといい?」
朝比奈の声だった。
「うん、どうした?」
「今日、少し早めに上がれる? 社の裏の公園で、ちょっとだけ話したいんだ」
その一瞬、俺は、パソコンの画面の角に映った自分の顔を、見てしまった。少しだけ、血の気が引いていた。「ちょっとだけ話したいんだ」という朝比奈の声の、普段との微妙な違い。丁寧さの中に、ほんの少しだけ、硬さが混じっていた。
「いいよ。三十分後で」
俺はそう答えた。答えながら、自分の喉の奥が、また、少しだけ、乾いた。
◇
公園のベンチに、朝比奈は先に座っていた。
春の夕方で、まだ空は明るかった。桜はもう散って、代わりに、若葉の緑が、夕日の中で、柔らかく光っていた。朝比奈はカーディガンの裾を膝の上で丁寧にたたんで、コンビニで買ったらしい紙コップのコーヒーを、両手で包むように持っていた。
「お疲れさま」
俺が近づくと、朝比奈は顔を上げて、いつものやわらかい目で、俺を見た。
「灰谷くんもお疲れさま。急にごめんね」
「大丈夫。座っていい?」
「どうぞ」
俺はベンチの反対端に座った。間に、紙コップが一つ分の距離が空いた。その距離を、朝比奈は、たぶん、わざと、詰めなかった。
しばらく、二人とも、何も喋らなかった。
公園の奥で、小さな子供の笑い声がした。風が、俺たちの前を一度だけ通り抜けて、朝比奈の前髪を、ほんの少し、揺らした。
「灰谷くん」
朝比奈が、先に、口を開いた。
「この前のプレゼンの言い回し、本郷さんにそっくりだったよ」
俺は、笑って返そうとした。その笑いが、口元で固まった。
「それだけじゃなくて。最近の灰谷くんの交渉の仕方、田村さんの癖が混ざってる。それから、書類のまとめ方は、新井さんのやり方そのもの。私ね、経理だから、各部署の動きの癖は、自然に覚えてるの」
朝比奈は、前を向いたまま、そう言った。俺の顔を、見ていなかった。見ていなかったけれど、それはたぶん、俺のための優しさだった。俺の顔の変化を見てしまったら、朝比奈の方も、言いたいことを、言えなくなるかもしれなかった。
俺は、一度、口を開いて、閉じた。もう一度、開いた。今度は、言葉が出た。
「……意識して、真似してるんだ」
出た言葉は、嘘だった。
「尊敬する先輩たちの、いいところを、盗もうと思って。ずっと、このままじゃだめだと思ってたから」
朝比奈は、そう、と小さく頷いた。頷いた頷き方が、信じたときの頷き方ではなかった。信じないときの頷き方でもなかった。その中間の、「この人のために、信じたことにしておく」という頷き方だった。
朝比奈は、紙コップを両手で、ほんの少しだけ、強く握り直した。
「あのさ、灰谷くん」
「うん」
「私、何があっても、灰谷くんの味方だから」
その一言が、俺の胸の、一番柔らかいところに、まっすぐ刺さった。
以前の俺なら、その一言で、目頭が熱くなっていたと思う。今日の俺は、熱くならなかった。熱くならなかった代わりに、胸の奥の一番深いところで、小さな、古いランプが、一度だけ、明るくなった気がした。奪う前の灰谷透真が、奥の方で、小さな背中を見せて、立ち上がりかけた気配があった。
俺は、その気配に、手を伸ばしそうになって、やめた。
「……ありがとう」
口からは、その四文字しか、出てこなかった。四文字の間隔が、いつもより少しだけ、長くなった気がした。
◇
朝比奈は、それ以上何も聞かず、「じゃあ、私、先に戻るね」と言って、立ち上がった。
ベンチを離れる前、彼女は一度、俺を振り返って、小さく微笑んだ。その微笑みには、「また明日ね」以外の何も込められていなかった。込められていないことが、俺には、一番、辛かった。
朝比奈の背中が、公園の出口に向かって、遠ざかっていった。
俺はベンチに座ったまま、自分の両手を、膝の上で、ゆっくり開いた。
右の手のひらを、じっと見た。結城の分析力の、新しい層が、まだ、熱を持っていた。田村の間の、少し古くなった熱も、薄く残っていた。これらの熱は、どれも、朝比奈に触れれば、流れ込むべきものを流し込ませる装置だった。
俺は、手のひらに、小さく、口の形で、こう言った。
「朝比奈さんの才能は、奪わない」
声は出なかった。口の形だけが、動いた。
その形を作った瞬間、俺は、自分が「奪わない」と決められたことに、小さな安堵を感じた。
感じた次の瞬間だった。
背筋に、細い氷の糸が、一本、通った。
「奪わない」と決めたということは、「奪う」という選択肢が、俺の頭の中に、あったということだ。選択肢として、ちゃんと、並んでいたのだ。「朝比奈さんの才能を奪うかどうか」という問いが、俺の内側の、ほんの一瞬のあいだ、成立していたのだ。
成立していた、その事実が、俺の心臓を、奥から、冷たく絞った。
俺は、自分の両手を、ぐっ、と握りしめた。握りしめた手のひらの中で、さっきまで熱を持っていた場所が、急速に、冷えていった。冷えた部分の真ん中で、震えだけが、残っていた。
公園の奥の子供の笑い声が、また、ひとつ、聞こえた。
その笑い声を聞きながら、俺は、しばらく、立ち上がれなかった。




