左遷の朝
営業フロアの奥に、部長の田之上が立ち、課員全員が半円を作って、いつもの人事連絡や営業数字の報告を聞く、月に一度の儀式だった。週の初めの、だるい空気と、スーツの腕時計がときどき鳴る音。以前の俺は、この朝礼で、いちばん後ろの列の端に立ち、足のつま先を交互に動かして時間をやり過ごしていた。
今朝、俺は、前から二列目の、部長の視界に入る場所に、立っていた。
プロジェクトリーダーは、自然と前に出る。誰に指図されたわけでもなかった。数日前の打ち合わせで、俺は、自分がその位置に立つのが「正しい位置」だと、自分の体で理解した。その位置に立っている自分を、気づけば俺は、以前の自分にあって、今の自分にない何かを、一つ、確認し直すようにして受け入れていた。
◇
田之上部長は、いつもより、少しだけ、事務的な口調だった。
来月の売上目標の話、新入社員の配属、小さな業務通達。三つの項目を淡々と読み上げてから、彼は、資料の最後のページに指を置いた。その指が、ほんの一瞬、止まった。止まった指を、田之上は軽く持ち上げて、もう一度、ゆっくり、置き直した。
「最後に、一件、人事のお知らせがあります」
田之上がそう言った瞬間、営業フロアの空気が、半拍、止まった。
正確に言えば、止まったのではない。止まったように感じたのは、俺だけだったのかもしれなかった。俺の中の、今日までに奪ってきた四人分の耳が、フロア全員の呼吸の小さな変化を、ひとつひとつ拾い上げていた。田之上の数メートル前列にいる一人の課員が、ごくりと唾を飲む音を、俺は、五メートル離れた場所から、聞いていた。
「営業一課の本郷誠一課長が、月末をもって、北関東支社に異動となります」
「異動」の単語が、フロアに投下された。
一秒、二秒、三秒、誰も、何の反応もしなかった。三秒後、ようやく、前列の端の若手が、隣の同僚と顔を見合わせた。その見合わせ方には、驚きと、納得と、「やっぱり」という形のない何かが、同じ比率で混ざっていた。驚きは、ほんの少しだけだった。納得のほうが、ずっと大きかった。
田之上は、いつものように「本郷課長から一言お願いします」とは、言わなかった。言わなかったのが、いちばん、応えた。
以前の朝礼なら、異動の挨拶は、主役の口から、フロア全員に向かって、長めに語られるのが通例だった。田之上の沈黙は、本郷への配慮だった。何を喋っても言葉が出てこない相手に、マイクは渡せなかった。部長は、静かに、書類を閉じた。
「朝礼、以上です。今週も一週間、よろしくお願いします」
半円は、少しずつ、崩れた。
崩れた半円の、一番端にいた本郷は、最後まで、顔を上げなかった。
◇
朝礼が終わってすぐ、本郷は自分の席に戻り、机の下から、段ボールを一つ、取り出した。
どこに隠してあったのかは、俺の席からは見えなかった。けれど、段ボールを机の上に広げる本郷の手の動きには、「今朝、決めていた」という意志だけが、静かに、詰まっていた。辞令が正式に出る前から、本郷は、この日が来ることを、知っていた。知っていたのに、朝礼の場で、初めて聞いたふりをするのが、せめてもの、本郷の残した誇りだった。
本郷は、引き出しから一つずつ、私物を取り出した。
ペン立て。家族写真の立てかけ。カレンダーのメモ帳。二十年前、この会社に入った初日に、最初に置いた、もう黒ずんだマグカップ。マグカップを段ボールに入れるとき、本郷の手が、一瞬だけ、動きを止めた。カップの底に、何かが張り付いていたのかもしれない。あるいは、底に書かれた自分の名前を、久しぶりに見たのかもしれなかった。
フロアの誰一人、本郷の席には近づかなかった。
俺は、自分の机の資料を、意味もなく、何度もめくっていた。
めくっているふりだった。視線の全部は、フロアの反対側の、本郷の段ボールに、張り付いていた。
本郷は、一人で、段ボールを詰め終えた。
詰め終えて、しばらくの間、椅子に座ったまま、自分の机の、空になった天板を、ただ、見ていた。見ていたのは、たぶん、天板ではなかった。二十年分の、自分の手の跡の痕跡を、見ていた。
◇
昼過ぎだった。
俺のデスクの横の通路を、段ボールを抱えた本郷が、ゆっくりと、通りかかった。
通り過ぎるのかと思った。通り過ぎなかった。
本郷は、俺のデスクの手前で、足を止めた。段ボールを胸に抱えたまま、少し、俺を見下ろした。
「灰谷」
俺は立ち上がった。本来なら、課員として、去っていく上司を見送るときの、ちゃんとした姿勢で立つべきだった。けれど俺の体は、立ち上がるだけで精一杯だった。
「本郷さん。……お世話に、なりました」
自分の口から出た言葉は、薄く、遠くから聞こえた。
本郷は、俺の顔を、じっと、見つめた。詰めるような目ではなかった。二十年前、転職してきた初日のような、知らない相手を初めて品定めする目でも、なかった。ただ、ゆっくりと、俺の顔の上を、何かを探すように、視線が流れていった。見つけようとしているのは、たぶん、「自分の知っている灰谷透真」だった。
「お前は、変わったな」
本郷が、静かに、そう言った。
「いえ、そんな」
「……正直に言う。もう、別人だ」
別人、の「人」の字が、俺の胸に、針のように刺さった。
本郷は、それ以上、何も言わなかった。段ボールを抱え直して、もう一度、軽く頷いた。頷いた瞬間、本郷のコロンの香りが、ほんの少しだけ、俺の鼻をかすめた。以前は威圧的に感じたその香りが、今日は、ずいぶんと、薄くなっていた。香水の量が減ったのか、それとも、香水をまとっていた男そのものが薄くなっていたのか、俺には、判断がつかなかった。
本郷は、廊下のほうへ、歩き出した。
俺は、その背中を、見送った。
見送りながら、胸の内側で、二つの感情が、同時に立ち上がった。罪悪感が、一つ。もう一つは、「この景色を作ったのは、俺の力だ」という、暗い、底の見えない、満足感だった。
満足感のほうが、少しだけ、先に立った。
立ったことを、自分で気づいた瞬間、俺は、初めて、自分の中に棲んでいる獣の輪郭を、はっきり見た気がした。獣は、静かだった。俺の胸の内側で、ただ、満足して、小さく尻尾を揺らしていた。
◇
本郷の背中が、廊下の奥に消えていく手前で、もう一人の姿が、視界の端に入ってきた。
フロアと廊下のあいだの、扉の開いた場所に、朝比奈が立っていた。
経理部のフロアから、たまたま、連絡事項の紙を持って、こちらに来ていた途中だったのかもしれなかった。紙を手に持ったまま、彼女は、廊下の奥の、段ボールを抱えた本郷の背中を、じっと、見ていた。次に、その視線が、ゆっくりと、フロアの反対側に、移った。
朝比奈の目が、俺の顔の上で、止まった。
その瞬間の朝比奈の表情を、俺は、たぶん、一生、忘れない。
怒っていたわけではなかった。悲しんでいたわけでも、責めていたわけでもなかった。ただ、彼女の丸眼鏡の奥の目は、今朝のこの朝礼の風景を、一つの「答え合わせ」として、静かに、受け取ってしまった目だった。
先週、公園で俺が「尊敬する先輩の真似をしてるんだ」と言った嘘を、朝比奈は、信じたふりをしてくれていた。今、朝比奈の目の中で、そのふりが、ひとつ、剥がれた。
彼女は、俺から目を逸らさなかった。
俺のほうが、先に、目を逸らしてしまった。
目を逸らした瞬間、朝比奈の視線が、もう一度、本郷の背中に戻って、それから、自分の手元の紙に落ちた。落ちた紙を、朝比奈は、両手でほんの少しだけ、強く、握り直した。紙のふちが、微かに、しわになった。
彼女はそのまま、くるりと踵を返して、経理部のフロアに戻っていった。
戻っていく彼女の背中を、俺は、もう、追えなかった。
追えないまま、俺は、自分の席のほうに、ゆっくりと、椅子を引いた。椅子を引く音が、午後のフロアの中で、妙に、大きく響いた。響いた音を、誰も、振り返らなかった。振り返らないのが、俺にとっては、一番、耐え難いことだった。




