蜜と毒
重い木の扉が、ゆっくりと戸当たりに収まり、最後に、かち、と鍵の舌が、静かに落ちる音。その音が落ちた瞬間、廊下の空気が、一段、重くなった気がした。
その日、俺は、営業部の平社員としては、例外的に、役員会議のオブザーバーとして招かれていた。Aプロジェクトのリーダーとして、進捗の報告をするためだった。報告は、十五分で終わった。十五分のあいだに、俺は、本部長と常務と、社外取締役の三人に、「ほう」と言わせた。「ほう」の数を、俺は、頭の中の水野の書庫で、きちんと数えていた。
報告を終えて、会議室を出たとき、ドアのすぐ外で、営業本部長が、後から追いかけてきた。
「灰谷くん。ちょっと、いいか」
「はい」
本部長は、俺の肩に、軽く手を置いた。
「役員会で、名前、出た。次の人事の、候補に」
候補、の二文字だけが、耳の奥に残った。
候補という単語を、自分のことに使われた経験は、生まれて三十二年、初めてだった。候補というのは、いつも、誰か別の人間につけられる肩書きだった。兄の隆一の横によくついていた単語だった。今日、それが、俺の横にも、並んだ。
本部長は、それだけ言って、会議室に戻っていった。
俺は、廊下に、ひとり、立っていた。
耳の奥で、「候補」の二文字が、こんこん、と低い鐘のように、もう一度、鳴った。
◇
その夜、俺は、地下鉄に乗らず、会社の裏手の大通りを、歩いて帰った。
本当は、もう少し早く帰りたかった。でも、体の中のエネルギーが、まだ、座席に座らせてくれなかった。歩いていないと、熱の行き場がなかった。大通りの街路樹の下を、コートの前を開けて、俺は、ただ、歩いた。歩きながら、胸の中で、小さな声が、何度も繰り返していた。
――もっと、上に、行ける。
それは、以前の俺の声ではなかった。以前の俺は、上を見ることを、最初から諦めていた。今の俺の中で、「上」という方向は、ただの抽象ではなかった。手を伸ばせば、指先に、段差の感触が、本当に、当たった。段差は、まだ、いくつもあった。その段差の一つ一つに、誰かの名前と才能が、置かれていた。その名前を、俺は、もう、頭の中のリストで、いくつも持っていた。
気づくと、俺は、会社の近くの小さな公園の入り口にいた。
特に、寄るつもりで足を向けたわけではなかった。体が、勝手に、そちらに曲がっていた。
◇
公園のベンチには、先客がいた。
街灯の光の届かない、少し奥まった場所の、木のベンチ。そこに、老人が一人、座っていた。薄いコートを着て、膝に両手を乗せ、前を見ているような、何も見ていないような目で、夜の空気の中に、溶け込むように、座っていた。
一目、見た瞬間に、俺の足は、止まった。
一か月ほど前、終電の駅のホームで、酒に酔って俺の肩にぶつかってきた、あの老人だった。俺が、この能力を得た、最初の夜の老人だった。顔を、忘れたことは、一度もなかった。忘れようと思っても、忘れられない顔だった。
老人は、俺のほうを、見ていなかった。
けれど、俺がベンチの前まで歩いて行く間に、一度も、こちらを見ないまま、先に、口を開いた。
「美味しいかね、他人の才能は」
その一言が、夜気の中に、低く、ゆっくりと、置かれた。
俺の足は、ベンチの二メートル手前で、止まった。二メートルの距離の間に、夜の風が、一度だけ、俺たちの間を通り抜けた。
「……どうして、あなたが、ここに」
俺の口から、やっと、出た言葉は、質問の形をしていた。質問の形をしていたけれど、本当は、質問ではなかった。俺はこの老人が、ただ偶然、ここにいるのではないことを、頭のどこかで、もう、知っていた。
老人は、答えなかった。
代わりに、少し、首を傾げるような仕草で、ベンチの自分の横の空間を、ほんの、手の甲で軽く払った。座れ、という合図にも、座らなくていい、という合図にも、どちらにも取れる仕草だった。俺は、座らなかった。座る勇気が、ちょうど、半分だけ、足りなかった。
「美味しいだろう」
老人は、もう一度、同じことを言った。
今度の言い方は、質問ではなかった。確認でもなかった。ただ、そこに、事実を置くだけの、言い方だった。
俺は、答えなかった。
答えなかった俺の喉の奥で、今日一日の出来事の味が、小さく、もう一度、蘇った。本部長の「候補」の声。朝のフロアの段ボールを抱えた本郷の背中。公園のベンチで朝比奈が「味方だから」と言った、あの、まっすぐな声。どれもが、今、舌の上で、妙な甘さと苦さを、同時に持って広がった。
老人は、俺の沈黙を、一通り、味わうように、数秒、待った。
それから、静かに、続けた。
「蜜は、毒に、変わる」
俺は、息を止めた。
「だが――」
老人は、そこで、少しだけ、声を落とした。
「毒が、蜜に、感じるようになったら。そのときは、もう、手遅れだ」
夜の公園の奥の、遠くの自動販売機が、ぶうん、と一度、唸った。唸り声が、静かな空気の中で、大きく響いた。老人の声は、その自販機の唸りに、ちょうど重ならないタイミングで、静かに、消えていった。
俺は、言うべき言葉を、探した。探しても、出てこなかった。
「あなたは、誰、なんですか」
ようやく、そう言った。
老人は、ゆっくりと、立ち上がった。
立ち上がった瞬間の老人の背丈は、見た目ほど小さくなかった。コートの肩が、街灯のほうへ、軽く動いた。老人は、俺のほうを、ほんの一瞬だけ、振り向いた。目の奥に、何か、深い井戸のような暗さがあった。その暗さは、俺のことを、嗤っているようにも、憐れんでいるようにも、見えた。
「わしは、何者でもない」
それだけ言って、老人は、歩き出した。
俺は、追おうとした。追おうとした足が、一歩目で、止まった。止まったのは、俺の意志ではなかった。足のほうが、勝手に、止まった。老人が歩き去っていく間、俺は、ベンチの横に、ただ、立っていた。
◇
老人の背中が、公園の出口のほうに消えて、見えなくなったあと、俺はベンチに、ようやく座った。
座ったベンチの、老人が座っていたあたりに、微かな、人の体温の残り香のような温もりが、まだ、残っていた。俺は、その温もりに、手のひらを当てた。温もりは、確かに、あった。幻ではなかった。現実の温度として、ベンチの木に、残っていた。
残っていたことが、俺には、一番、応えた。
◇
ワンルームに帰って、俺は、灯りをつけなかった。
暗い部屋の真ん中に立ち、月明かりだけの床の上で、自分の両手を、ゆっくり、胸の高さまで持ち上げた。手のひらを、自分の顔に向けた。窓から入ってくる月の光で、手のひらの皺が、うっすらと見えた。
この手で、俺は、もう、たくさんのものに触れていた。
本郷の腕、田村の肩、新井の指、水野の肩、結城の手のひら。そして、今日、朝比奈の隣に座ったベンチの、木の感触。老人のベンチに残っていた、あの、温もり。全部の感触が、今、俺の手のひらの、別々の場所に、別々の熱として、層になっていた。
層の一番上に、何か、重たいものが、乗っていた。
それが何なのか、俺はしばらく、目を瞑って、確かめようとした。確かめようとした瞬間、その重たさの正体は、すっ、と薄く、別の感情に上書きされていった。
上書きした感情は、とても、静かなものだった。
――もっと、上に、行ける。
さっき、帰り道で繰り返していたその声が、暗い部屋の中で、もう一度、俺の内側から、聞こえた。
老人の警告は、たしかに、聞いた。
聞いたことは、忘れていない。忘れていないけれど、警告は、今、俺の「上に行ける」という確信に、勝てなかった。蜜が毒に変わる、と老人は言った。変わったら、変わったときに、考える。そう思った瞬間、俺は自分が、一番やってはいけない考え方を、している自覚があった。自覚があるのに、思考は、止まらなかった。
俺は、目を開けた。
暗い部屋の中で、自分の手のひらが、ほんの少しだけ、熱を帯びているのが、見えた気がした。気がしただけだった。けれどその「気がしただけ」の熱を、俺は、もう、美味しいと、感じ始めていた。
◇
翌朝、歯を磨きながら、俺はテレビをつけていた。
ワイドショーの経済コーナーが終わり、スポーツコーナーに切り替わった。アナウンサーの背景のモニターに、笑顔の若い男の写真が映った。陽に灼けた肌、濡れた髪、競泳のキャップを片手に持って、カメラに向かって屈託なく笑っている男だった。
テロップに、短い文字が並んでいた。
『元日本代表候補 安藤圭吾選手 チャリティマラソンで都内へ』
歯ブラシを持ったまま、俺の手が、止まった。
テレビの中の若い男は、軽く手を振りながら、インタビューに答えていた。明るい声だった。「子どもたちのために、走ってきます」と、衒いのない笑顔で言った。その笑顔の奥に、選手として積み上げてきた、筋力と、反射と、空間把握と、呼吸の管理の全部が、一枚の光のように、重なって映っていた。
俺は、歯ブラシを、洗面台に置いた。
自分の右の手のひらを、目の前に持ち上げた。手のひらの真ん中が、昨夜の暗い部屋で感じた熱の、何倍もの速さで、じわりと、温度を上げていった。上げながら、その熱の奥で、声にならない声が、一言、言った。
――あれを、喰いたい。
老人の「蜜は毒に変わる」という言葉が、耳の奥で、もう一度、遠く、鳴った。鳴ったけれど、鳴り終わったときには、俺はすでに、テレビのチャリティマラソンの開催場所と日付を、頭の中の書庫に、きちんと、記録し終えていた。
鏡の中の俺の顔は、笑っていなかった。
笑っていないのに、俺は、笑っているのと同じ匂いを、自分から、嗅いだ気がした。
窓の外で、四月の終わりの朝の光が、少しずつ、部屋の床を、白く、染め始めていた。




