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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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飢えた獣の嗅覚

 本郷の席は、もうそこになかった。正確には、机だけが残っていて、抽斗の中身が、抜き取られた歯のように、空っぽになっていた。誰も、その椅子を、引かなかった。誰も、その椅子の話を、しなかった。フロアの照明は普段と同じ明るさのはずなのに、本郷の席の上だけ、一段、白っぽく抜けて見えた。


 俺は、自分の席で、ノートパソコンを開いた。


 キーボードの上で、指が、軽く、跳ねた。本郷の段ボールが運び出されたあとの静かな空気の中で、俺のキーの音だけが、やけに、軽快に響いた。隣の若手の肩が、その音に、ほんの一瞬、すくんだのを、横目で確認した。確認した自分に、なんの感情も、湧かなかった。


 朝礼の途中で、田之上部長が、廊下から戻ってきて、俺の机の脇に立った。


「灰谷くん。あとで、部屋に来てくれるか」


 その言い方は、本郷を呼んだときの、あの低い、義務的なトーンとは、別の音色だった。少し、上ずっていた。なにかを差し出すための、声だった。


「はい」


 俺は、目だけで、頷いた。



  ◇



 部長室の椅子は、本郷が座ったときのまま、まだ少し、温度が残っているような気がした。


 田之上は、机の向こうから、紙を一枚、差し出した。


「内示だ。来月から、新設の事業企画部の、室長代理。Aプロジェクトは、そのまま統括」


 紙の上に印字された自分の名前を、俺は、しばらく見ていた。「室長代理」という五文字が、紙の中央に、堂々と、置かれていた。生まれて三十二年、自分の名前の脇に、こういう五文字がついた経験は、なかった。


「ありがとうございます」


 俺は、頭を下げた。


 下げる角度も、声の高さも、二週間前の自分とは、違っていた。違っているということを、田之上は、知っているふりをしていなかった。気づいていないふりが、上手だった。気づかれていることに、俺は、もう、気づいていた。


「灰谷」


 部屋を出ようとしたとき、田之上は、椅子に深く座り直しながら、言った。


「お前、いま、どこに、向かってるんだ」


 質問の語尾は、上がっていなかった。確認でもなかった。たぶん、答えは要らなかった。要らない問いは、要らないままに、宙に置かれた。


 俺は、扉に手をかけたまま、振り返らずに、答えた。


「上です」


 扉の取っ手の金属が、手のひらの中で、ほんの少し、湿った。



  ◇



 夕方の電車は、まだ混んでいる時間だった。


 吊り革に手をかけて立ちながら、俺は、車窓に映る自分の姿を、ぼんやり見ていた。スーツの肩のラインが、二週間前より、少し、貼りついていた。痩せ型の輪郭は変わっていないのに、肩から首にかけての筋が、以前より、起きていた。気がする、と、思おうとした。気がする、で済ませたかった。済ませられなかった。


 左手で、右の上腕を、軽く、握ってみた。


 握った指の腹に、薄いけれど、確かな筋肉の輪郭が、当たった。当たった瞬間、指先のずっと奥の、肘のあたりから、声にならない声が、上がった。


 ――もっと。


 その声は、もう、何度も聞いた声だった。何度も聞いたから、最初に聞いたときの驚きは、なかった。代わりに、その声が、いつのまにか、俺の声と、同じ抑揚を持つようになっていた。


 吊り革を握っている右手の中心に、薄く、熱が灯った。


 この熱は、本郷を奪った夜にはじめて知った熱と、同じ熱だった。同じ熱なのに、量が、違った。本郷の頃は、コップ一杯の温度だった。今は、もう、コップでは、足りなかった。手のひらの真ん中に、底の見えない器が一つ、いつのまにか、据え付けられていた。


 器が、空だった。


 駅を一つ、また一つ、過ぎていく間に、俺は、頭の中の標的リストを、ゆっくり、めくった。社内の名前は、ほとんど、線が引かれていた。残った名前は、どれも、もう、コップ一杯の名前ばかりだった。


 最後のページに、まだ、線の引かれていない名前が、数人、並んでいた。


 その筆頭に、テロップで見た、若い男の笑顔の名前が、あった。


 安藤圭吾。


 名前のすぐ下に、俺は、頭の中で、薄い赤の下線を、引き直した。



  ◇



 安藤圭吾のチャリティマラソンが、来月の頭であることを、俺は、すでに知っていた。


 知っていたけれど、それまで、待つ気は、なかった。


 乗り換えの駅で、俺は、地下鉄の改札を、まっすぐ通り抜けずに、地上に出た。出てすぐの大通りの角に、ずっと前から看板だけ知っていた、高級スポーツジムの黒いガラスの入口があった。地下三階まで吹き抜けたエントランスに、有名人がときどき出入りしていて、雑誌の取材が入ることもある、と、銀座のバーで誰かが言っていた。


 体験入会、と書かれた札を、俺は、受付で、指差した。


「本日、お時間ありますか」


 受付の女性は、丁寧に微笑んで、申込書を差し出した。


 申込書の名前欄に、ボールペンを当てた瞬間、俺の指が、ほんの一拍、止まった。


 偽名を、書きそうになった。書きそうになって、止めた。止めた理由は、罪悪感では、なかった。万が一、ここで知り合う相手と、後日また顔を合わせるとき、偽名のままだと、面倒だ、と頭の中で計算した結果だった。


 計算が、罪悪感を、出し抜いた。


 俺は、自分の本名を、楷書で、丁寧に書いた。



  ◇



 ジムのフロアは、想像より、静かだった。


 マシンの金属がこすれる音と、誰かのトレーニングシューズが床を蹴る、短く乾いた音が、規則的に重なっていた。窓の向こうのビル群の灯りが、ガラス越しに、青く落ちていた。


 その青の中に、一人の男が、いた。


 奥のフリースペースで、コーンを四つ、菱形に置いて、その間を、足音もなく、軽く、跳ねていた。スプリットのターンが、毎回、寸分違わず同じ角度で入っていた。膝が、蹴る方向に、迷わなかった。腰の高さが、最後まで、ぶれなかった。誰かに見せるための動きではなかった。完全に、自分の体の中だけで、回っている動きだった。


 俺の足は、フロアの入口で、止まった。


 そこで、俺は、生まれて初めて、舌の上に、別の温度の唾が湧くのを、感じた。


 今までに奪ってきた誰の才能とも、違った。これは、重さが、別の段にあった。社内の小物の才能を一年分積み上げても、たぶん、あの男の脛の片側にも、届かなかった。


 俺は、近くにいた女性のトレーナーに、できるだけ、何気ない声で、訊いた。


「あの方、有名な方ですか」


 トレーナーは、ちょっとだけ嬉しそうな顔で、囁いた。


「安藤圭吾さん。元プロサッカーの。最近は、子どものサッカー教室もやってるんですよ」


 子どもの、サッカー教室。


 その四文字が、なぜか、俺の耳の奥の、ずっと深いところに、ことん、と落ちた。


 落ちた音を、俺は、聞かないふりをした。



  ◇



 一時間ほど、俺は、フロアの隅で、適当なマシンに座り、安藤の動きだけを、見ていた。


 見ていることを、安藤は、たぶん、気づいていなかった。彼の世界は、自分の体の中で、完結していた。他人の視線を入れる隙間が、彼の動きには、なかった。


 俺は、その隙間のなさを、舌の上で、転がした。


 安藤がトレーニングを終えて、タオルを首にかけて、ロッカールームのほうへ歩いていったとき、俺は、自然な歩幅で、立ち上がった。立ち上がる動作も、二週間前の俺なら、もう少し、体が遅れた。今日の俺は、立ち上がる前から、もう、ロッカールームの中の、空気の温度を、計算し終えていた。


 ロッカールームには、誰もいなかった。


 いや、正確には、安藤一人がいた。彼は、自分のロッカーの前で、シャツのボタンを外していた。シャワーから出てきた直後の石鹸の匂いが、まだ、髪の根元に、薄く残っていた。健康な肌の匂いだった。汗を流したあとの、まっとうな人間の匂いだった。


 その匂いを、俺は、鼻で吸い込んだ。


 吸い込んだ瞬間、俺の唇の端が、ほんの少しだけ、上がった。上がったことに、自分でも、ぎりぎり、気づいた。


 俺は、自分のロッカーを、安藤の二つ隣に決めた。


 扉を開けるふりをしながら、視線の角度だけ、安藤に向けた。安藤は、こちらを、ふと、見た。視線が合った。合った瞬間、俺は、人当たりのよさそうな営業マンの顔を、迷わずに、表面に出した。


「あの、すみません。さっきの、フリースペースの動き、見てました」


 声は、卑屈に、なりすぎないように、整えた。


「あれ、サッカーの動きですよね。あんなの、初めて見ました」


 安藤は、少し驚いたあと、照れたように、笑った。


「ああ、あれ、ただの、リハビリの延長ですよ」


「リハビリ、ですか。それで、あの動き」


 俺は、少しだけ、首を傾げた。傾げる角度を、頭の中の水野の書庫が、勝手に、四十二度に整えた。


 安藤は、その角度に、ふっと、肩の力を抜いた。抜き加減が、絶妙だった。彼の人の良さが、その肩の動きに、全部、出ていた。


 俺は、安藤の顔を、まっすぐに、見た。


「もしよかったら」


 声を、半歩だけ、踏み出した。


「サッカー、教えてくださいよ。お金、ちゃんと、お支払いします」


 言い終わったときの俺の唇は、ふつうの営業マンの笑いの形を、していた。


 形だけは、していた。


 その笑いの一番奥の、舌の付け根のあたりで、俺の右手の中心に据えられた、底の見えない器が、ゆっくりと、口を開けた。


 開けた口の縁に、安藤の石鹸の匂いが、薄く、当たっていた。

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