十五秒の握手
俺は、月水金の夜、定時の少し前にオフィスを出て、地下鉄でジムへ向かい、ロッカールームで着替え、地下二階の屋内フットサルコートの前で安藤を待った。安藤は、いつも、俺より十分早く来ていた。コートの端で軽くストレッチをしながら、俺が降りてくるのを待った。
最初の日、安藤は、俺の足元を見て、笑った。
「灰谷さん、シューズ、ちゃんと買ったんすね」
「店員さんに、選んでもらいました」
俺は、肩をすくめてみせた。安藤は、気の良い笑い方で、コートに俺を引っ張り込んだ。
彼の教え方は、うまかった。
うまい、というのは、技術の話では、なかった。彼は、相手の体の中の、できる場所と、できない場所を、すぐに見分けた。三十二歳で、運動らしい運動を一度もしてこなかった俺の足首の硬さも、骨盤の前傾も、肩甲骨の癒着も、三十秒の歩き方を見ただけで、ぜんぶ、彼の頭の中の地図に、書き写されていた。
「灰谷さん、根性ある人ですね」
二回目のレッスンの帰り、シャワーから戻ってきた安藤は、自分のロッカーの扉の縁にもたれて、そう言った。
「ビジネスマンの体験コースの人で、ここまで本気でやる人、あんま、見ません」
「すみません、ご迷惑じゃないですか」
「迷惑なら、最初に断ってますって」
安藤は、屈託なく、笑った。笑いの中に、子どもみたいな白さが、混じっていた。
俺は、ロッカーの中の、自分のスーツの袖口を、指で、軽く、撫でた。
撫でた指の腹に、薄い、汗の名残があった。
その汗は、二週間前まで、俺の体が知らなかった種類の汗だった。
◇
三回目のレッスンのあと、安藤は、軽く、自分の話をした。
話したい、というよりは、相手の沈黙に、何か、置いていきたい、という種類の話だった。
子どもの頃、団地のグラウンドで、姉と二人でボールを蹴っていたこと。父親が、毎週土曜の朝、ラジオ体操のあとに、五分だけ、付き合ってくれたこと。中学のとき、五歳上の従兄弟がJリーグの育成に入って、その背中を追って、選手になりたい、と思ったこと。プロになって三年で、靭帯をやって、二度と元の動きには戻らないと言われたこと。それでも、リハビリで、自分の体の中に、まだ、別の動きの引き出しが、いくつも残っていることを発見したこと。
「だから、今は、子どもにも、教えたいんですよね」
安藤は、自販機の、温かいレモンの缶を、両手で、包み込むように、握っていた。
「動けないって、思い込んでる体って、けっこう、動くんですよ」
動けない体が、けっこう動く。
その一文を、俺は、頭の中の書庫の、目立たない場所に、置いた。置いた瞬間、書庫の隣の棚で、別の声が、低く、囁いた。
――この男の動きは、全部、もう、お前のものだ。
俺は、安藤の缶を、見ていた。安藤が、その缶を、両手で包み込む握り方を、見ていた。包み込み方の指の角度が、長年、ボールを抱えた人間の手の角度だ、ということが、俺には、もう、分かった。
分かるようになっていることを、俺は、安藤に、悟らせなかった。
◇
最終日、と俺は、自分の中で、決めていた。
最初から、決めていた。
三回のレッスンを通して、安藤の体の使い方を、視覚的に、十分、観察した。観察した分だけ、俺の中の器の容量が、ふくらんでいた。器の縁から、もう、薄い泡が立ち始めていた。その泡を、これ以上待たせるのは、俺にとって、危険だった。
「すみません、安藤さん」
地下二階のフットサルコートの照明が、節電モードで、半分だけ落ちた、終わり際の時間。タオルで顔を拭いた安藤に、俺は、申込書とは別の封筒を、軽く、差し出した。
「これ、今日までの分の、追加のお礼です」
「いやいや、灰谷さん、そんな、要らないですよ」
「気持ちですから、本当に。受け取ってもらわないと、俺が、困ります」
俺は、自分の声に、ぎりぎりの、卑屈さの粉を、振りかけた。本心の卑屈さは、もう、底をついていた。だから、表面に振った卑屈さは、調味料の塩のようなものだった。安藤は、それを、本物の塩と勘違いしてくれた。
「あー……。じゃあ、有り難く」
安藤が、封筒を、両手で受け取った。受け取った瞬間、俺は、自然な動作で、右手を、安藤の前に出した。
「最後に、握手、いいですか」
安藤は、少し驚いた顔をしたあと、照れたように、自分の右手を、出した。
俺たちの、二つの右手が、コートサイドの、半分落ちた照明の下で、合わさった。
◇
握手の最初の二秒は、ふつうの握手だった。
安藤の手のひらは、思っていたより、厚かった。アスリートの手というのは、ボールを蹴る人間の手でも、てのひらが厚くなるのか、と俺は、頭の片隅で、ふと、思った。思った瞬間、俺の右の手のひらの真ん中の、底の見えない器が、安藤のてのひらの厚みを、まるごと、咥えた。
咥えた瞬間、俺の体の中の、すべての筋膜が、一斉に、ぴ、と張った。
張った、という感覚を、俺は、生まれて、初めて、味わった。
筋肉ではなかった。筋肉の外側の、薄い膜だった。その膜が、俺の体の中に、張り巡らされていることを、俺は、今までの三十二年、まったく知らずに生きてきた。膜が、ある、ということを、安藤の手のひらが、教えてくれた。教えながら、その膜の張り方の癖を、まるごと、俺の体に、移植してきた。
四秒。
俺の足の裏の、土踏まずの小さな筋が、勝手に、強く、地面を掴んだ。
六秒。
肩甲骨の下の、ふだん使ったことのない筋が、すっと、後ろに引いた。
八秒。
頭の後ろの、首の付け根の筋が、いきなり、緩んだ。緩んだことで、視野が、上下に、一気に広がった。フットサルコートの天井の梁の角度まで、初めて、はっきり見えた。
十秒。
俺の指先と、足の裏が、同じリズムで、何かを刻み始めた。安藤の少年時代、団地のグラウンドで、姉と二人で蹴ったボールの、最初の一蹴りのリズムだった。リズムが、俺の体の、芯の、芯を、通り抜けた。
十二秒。
安藤の喉の奥で、ごく小さく、んっ、という、空気の詰まる音が鳴った。
「……すみません。なんか、ちょっと、立ちくらみが」
安藤は、握手を、ほどこうとはしなかった。ほどく前に、自分の体の重心が、ほんの少しだけ、後ろに傾いだだけだった。
十五秒。
俺は、ゆっくりと、自分から、握手を、ほどいた。
ほどいたとき、安藤の手のひらの中央が、わずかに、白かった。血の通り方が、半拍、遅れているような白さだった。安藤は、自分の手のひらを、しばらく、不思議そうに眺めていた。眺めながら、軽く、首を振った。
「いやー、すいません。今日、ちょっと、トレーニング詰めすぎたかな」
「無理させちゃってましたね、すみません」
俺は、もう一度、卑屈さの粉を、表面に、薄く、振った。
安藤は、笑った。笑い顔は、まだ、元の安藤の笑い顔と、同じ形をしていた。同じ形をしているのに、その奥の、目の色だけ、ほんの一段、温度が下がっていた。下がったことを、安藤自身は、まだ、知らなかった。
知らないままで、安藤は、ロッカールームのほうへ、歩いていった。
歩いていく安藤の、左足の踏み出し方が、ほんの一拍、遅れているのを、俺だけが、見ていた。
◇
ジムを出て、表通りで、俺は、タクシーを、止めた。
六本木方面、と告げて、後部座席に、深く沈んだ。
窓の外の街灯が、流れた。流れていく光の、一本一本の形が、昨日までより、輪郭がくっきりと、見えた。視界の右と左の端の情報が、頭の中で、勝手に、整理されていた。整理しながら、俺の右足の、足首の角度が、いつのまにか、座席の上で、わずかに、内側に絞られていた。アスリートが、休息中に、足首を温存するときの角度だった。
俺は、自分の足首を、見ていた。
見ていたら、笑いが、こみ上げてきた。声には、出さなかった。出すと、運転手にバックミラーで気づかれる、ということを、今の俺は、ちゃんと、計算できるようになっていた。
代わりに、俺は、後部座席の窓ガラスのほうへ、顔を、向けた。
ガラスの中に、自分の顔が、薄く、映っていた。
顔の輪郭は、今朝と同じだった。痩せ型で、地味だった。十年、この顔で生きてきた。この顔のことなら、洗面所の鏡で、何百回も、見てきた。
その顔の、目だけが、違った。
ガラス越しの俺の左の瞳は、街灯の流れる速さの何分の一かに、追いつけていなかった。瞳孔の開き方が、暗いタクシーの中の明るさに対して、あきらかに、開きすぎていた。瞳の縁の黒の幅が、今朝の俺の倍は、太かった。
何かに、酔った人間の瞳孔だった。
俺は、何にも、酔って、いなかった。
酔っていないのに、瞳孔だけが、酔っていた。酔っていない自分と、酔っている瞳孔が、同じ顔の中に、同居していた。同居している、ということが、ガラスの中で、くっきりと、可視化されていた。
タクシーが、信号で、止まった。
俺の瞳孔は、それでも、開いたままだった。
俺は、ガラスの中の自分から、ゆっくりと、目を、逸らした。逸らしたあとも、瞳孔の温度だけが、自分の目の奥で、低く、低く、燃えていた。




