水を掴めない手
六時四十分の目覚まし時計より、五分早く、いつもの内蔵時計で目が覚めた。窓の外で、近所の郵便配達のバイクが、いつもの音で、いつもの角を曲がっていった。リビングの観葉植物の葉先が、朝の光の中で、いつもの揺れ方で、揺れていた。
いつも通りの朝の中で、安藤は、ゆっくり、両手を、頭の上に伸ばした。
伸ばした両手の指の先まで、ふだんなら、薄く、糸が通ったような感覚が走るのに、その朝、その糸は、肘の内側のあたりで、ふっ、と消えた。
安藤は、首を傾げた。
寝違えたかな、と思った。昨日の三回目のレッスン後、軽く立ちくらみがあったことを、思い出した。あの灰谷さんのお礼の封筒、あれを受け取った瞬間に、なんとなく、世界の温度が下がった気がした。そのときの感じが、今の指先に、まだ、薄く、続いているような気がした。
気のせいだ、と安藤は思った。
気のせいの種類は、毎日のように、選手の体には、訪れる。本物の不調と、気のせいの不調の境目を、見分けるのは、選手の仕事だった。安藤は、その仕事を、十年やってきた。十年の経験が、今朝のこれは、気のせいのほうだ、と告げていた。
告げていた、はずだった。
◇
ジャージに着替えて、安藤は、いつものように、近所の河川敷へ、ジョギングに出た。
最初の五十メートルは、いつもの五十メートルだった。
次の五十メートルで、安藤の右足の踏み出し方が、ほんの一拍、遅れた。
遅れたことに、安藤は、すぐ気づいた。気づいたから、逆側の左で、リズムを取り直そうとした。取り直そうとした左の踏み出しが、今度は、半拍、早すぎた。
二歩のあいだに、安藤の体の中の、ずっと小さい頃から数え切れないほど叩き込んできたリズム表が、すこし、ずれた。
安藤は、足を止めた。
河川敷の砂利の上で、両膝に手をついて、息を整えた。息は、まだ、乱れていなかった。乱れていないのに、両膝に手がいっていた。両膝に手がいくほどの、走り出しではなかった。
顔を、上げた。
朝の河川敷の、遠くの土手に、犬を連れた老人の後ろ姿が、ゆっくりと、横切っていた。光の中の老人の姿は、ふだん、何度も見てきた光景だった。同じ光景の中で、安藤の体だけが、いつもと違う場所に、立っていた。
◇
午前十時から、安藤には、子どもサッカー教室の予定があった。
区の総合グラウンドの、人工芝の小さなピッチを借りて、五歳から七歳までの十二人の子どもに、ボールの蹴り方を教える、月一回のクラスだった。半年前から始めたこの教室を、安藤は、自分のリハビリの最終工程の一つだと思っていた。
ピッチの脇に着いた頃には、最初の七人の子どもが、もう、ボールを追って走り回っていた。
「あんどう先生ー!」
一番背の小さな男の子が、両手を上げて、駆け寄ってきた。安藤は、その子の頭に、軽く、自分の手のひらを、置いた。
置いた手のひらの中央が、いつもより、薄く、冷たかった。
「ねえねえ、せんせい。きょうは、リフティング、おしえて」
「いいよ、おじさんが、ちゃんと、見せてやるからな」
安藤は、いつもの調子で、笑った。笑った口の端に、ほんの一拍、引きつりが残ったことに、子どもは、気づかなかった。
ピッチの中央で、ボールを、ぽん、と地面に置いた。
子どもたちが、輪になって、座った。十二の小さな目が、安藤の足元を、見上げていた。
安藤は、ボールに、軽く、つま先を当てた。
当てたつま先の角度を、毎日数千回、十年以上、安藤の体は、何の意識もなしに、再現してきた。再現の精度は、安藤の体の中の、最も信頼できる引き出しの一つだった。
その引き出しが、開かなかった。
◇
最初のリフティングは、二回で、ボールが、横に逃げた。
安藤は、笑って、子どもたちに、向き直った。
「ごめんごめん、おじさん、ちょっと、寝起きが悪いから、もう一回」
二度目のリフティングは、四回で、安藤の膝の外側に、ボールが、当たった。当たった瞬間の角度を、安藤の体は、勝手に、修正できなかった。修正できないまま、ボールは、向こうのフェンスのほうへ、ころころと、転がっていった。
子どもたちの一人が、ボールを取りに、走った。
走っていく子どもの背中を、安藤は、見ていた。
見ながら、自分の右足の、つま先の感覚を、もう一度、確かめようとした。つま先は、そこにあった。あった。ちゃんと、つま先は、安藤の足の先に、ついていた。
ついている、はずなのに、その感覚の中の、一番大事な、ボールに当てる前のミリ単位の予感が、なかった。
予感の場所だけが、空っぽだった。
空っぽの場所を、何度、探っても、空っぽだった。
安藤の額の生え際から、汗が、一筋、垂れた。垂れた汗が、目尻に、入った。塩辛さは、なかった。塩辛さの感覚も、ほんの少しだけ、薄かった。
◇
その日のサッカー教室を、安藤は、一時間、なんとか、もたせた。
自分の体で、ボールを蹴る量を、最小限に絞った。代わりに、子どもたちの蹴り方を見て、口で、指示を出した。「もう少し、ボールの真ん中、見て」「軸足、もうちょっと、内側」。指示の内容は、ふだんと、同じ言葉だった。同じ言葉が、ふだんと、違う響きで、自分の口から出た。
ふだんは、その指示の言葉のあとに、自分の体で、お手本を、見せられた。
今日は、見せられなかった。
見せられないことを、子どもたちは、ぼんやりと、感じ取っていた。気の良い子どもたちは、そのことを、口に出さなかった。出さない代わりに、いつもより、すこしだけ、自分から走るのが、減った。
最後の挨拶のとき、安藤は、十二人の小さな目に、向かって、頭を下げた。
下げた頭の中で、安藤は、自分自身に、向かって、頭を下げていた。
ごめん、と、誰かに、言いたかった。
誰に向かって謝るべきなのかが、分からなかった。
◇
夜の九時過ぎ、安藤は、誰もいないグラウンドに、一人で、戻った。
昼に教室で借りた、同じピッチだった。照明は、半分だけ、点いていた。芝の表面は、薄い夜露で、湿っていた。
安藤は、自分のジャージのポケットから、家から持ってきたボールを、出した。
空気の入りが、少し、足りなかった。少し足りない、ということを、ボールを片手の上に乗せた瞬間の重さで、安藤は、感じた。感じたことを、安藤は、もう一度、確かめなかった。確かめる前に、自分が、その感覚自体を、信用できないことに、気づいていたからだった。
ボールを、地面に、置いた。
大きく、息を吸った。
助走の歩幅は、何百万回、繰り返してきた歩幅だった。何百万回、自分の足が、勝手に決めてきた歩幅だった。
助走の三歩目で、安藤の右足は、いつもの場所に、踏み込めなかった。
いつもより、ほんの三センチ、外側に、踏んだ。
三センチの外側で、軸足の安定が、ほんの一拍、遅れた。
遅れた一拍の中で、振り抜いた右足のつま先は、ボールの、芯から、ほんの五ミリ、ずれた。
五ミリ、ずれたボールは、空を、まっすぐ、飛ばなかった。
左に、低く、転がっていった。
夜のピッチの上を、ボールは、ころころと、まるで、最初に蹴った日の、五歳の子どもが転がしたボールのように、小さな音を立てて、進んでいった。
◇
安藤は、ピッチの真ん中で、両膝を、ついた。
膝の下の人工芝が、ひんやりと、湿っていた。湿った冷たさが、両膝の皿を、ゆっくり、貫いていった。
安藤は、地面に、両手を、ついた。
ついた両手のひらの真ん中が、薄く、白かった。昨日の夜、ジムのロッカールームで、誰かと握手をしたあとに、確かめた、あの白さと、同じ場所の、同じ白さだった。
目を、閉じた。
閉じた目の裏側に、五歳の自分が、いた。
団地のグラウンドの、小さな砂場の脇で、姉と二人で、はじめて、サッカーボールを、蹴った日の、自分だった。あの日、初めて蹴ったボールは、まっすぐ、姉のところまで、転がっていった。あの日の、その、まっすぐの感覚を、安藤の体は、それから二十三年間、ずっと、覚えていた。
覚えていた感覚が、今夜、消えた。
安藤の喉の奥で、声にならない声が、ひとつ、上がった。
その声は、二十八歳の安藤の声では、なかった。
たった、五歳の、まだ何も知らない子どもの声、だった。
夜のグラウンドの、半分だけ点いた照明の下で、安藤は、五歳の自分よりも、無力な姿勢で、ただ、地面に、両膝を、ついていた。




