新しい肉体
目覚ましを止めるために、布団の中で右腕を伸ばした、その伸ばし方が、もう、別人だった。肩の関節が、二段階で、滑らかに動いた。一段階目で、上腕が起き上がり、二段階目で、肘から先が、目覚まし時計の真上に、迷わずに、降りてきた。指先が、ボタンの位置を、目で見る前に、知っていた。
知っていたから、目覚ましは、一回で、止まった。
止まったあとの、布団の中の俺の体は、まだ、横になっていた。横になっていたまま、俺は、自分の足の裏の感覚を、確かめた。足の裏の親指の付け根のあたりに、薄い、跳ねるような筋の張りがあった。張りの形を、俺の体は、もう、覚えていた。覚えているということを、頭ではなく、足の裏が、知っていた。
布団を、跳ね上げた。
跳ね上げる動作も、半年前に整体に行ったときに「あなたの腰、重力の二倍ありますよ」と笑われた、あの腰の重さは、なかった。代わりに、腰の中に、薄い、軽い羽が、二枚、入っていた。
俺は、部屋の真ん中に、立った。
立った状態のまま、何もせずに、ただ、自分の体の重心を、確かめた。重心は、ふだんよりも、わずかに、低かった。低い位置に、ぎゅ、と密度のあるものが、据え付けられていた。地面に、根が生えたみたいだった。
根が生えたのに、上半身は、軽かった。
◇
会社までの通勤の風景が、いつもと、違って見えた。
駅の階段を、俺は、二段ずつ、上がった。
二段ずつ上がるのを、俺は、生まれてから、一度も、しなかった。した経験が、一度もないのに、俺の足は、最初の一段目から、迷わずに、二段の高さを、選んだ。選んだ瞬間、後ろを上っていたサラリーマンの肩を、俺の体は、肩の角度を一度動かすだけで、避けた。避けるための計算は、頭でしなかった。した、という自覚が、俺にはなかった。気がついたら、避けていた。
ホームに着いたとき、俺の呼吸は、まったく、上がっていなかった。
ホームの端から、向かいのホームの掲示板の細かい時刻表まで、しっかり、字が見えた。字の太さの、ほんの僅かな違いまで、目の中で、選り分けられていた。
俺は、目を、ふと、閉じた。
閉じた瞼の裏に、見慣れない景色が、ふっ、と差し込んできた。
夕方の、団地の小さなグラウンドだった。背中に、夕焼けの薄い橙色を背負った、知らない女の子の後ろ姿が、いた。スカートの裾が、軽く、風で揺れていた。女の子の足元に、空気の半分抜けた、小さなサッカーボールが、転がっていた。女の子は、それを、自分の側に呼ぶように、両手を広げた。
その瞬間、俺の中の、もう一人の体が、ぴ、と小さく、地面を蹴った。
地面を蹴ったのは、五歳くらいの、まだ運動靴の紐の結び方も知らない、男の子の足だった。
男の子は、ボールを、姉のほうへ、まっすぐ、転がしていった。
まっすぐ、と男の子の体は、その瞬間、生まれて初めて、自分の体の中に、覚え込ませていた。
俺は、駅のホームで、目を、開けた。
夕焼けは、消えた。グラウンドも、女の子も、五歳の男の子も、消えた。残ったのは、朝の人混みと、電光掲示板の数字だけだった。
俺の右足の親指の付け根が、まだ、薄く、地面を、蹴っていた。
蹴っているのは、俺の足だった。蹴り方は、安藤の足だった。
俺は、ふっ、と一度、息を吐いた。
息を吐いたあと、俺は、自分の口元が、誰にも見られないように、ほんの少しだけ、上がっていることに、気づいた。気づいて、すぐ、もとに戻した。
◇
会社に着いてから、俺の周りの誰かが、二人、立て続けに、話しかけてきた。
「灰谷さん、最近、なんか、姿勢、変わりました?」
「あ、あれですかね、ジム、始めたんですよ」
「やっぱり! なんか、こう、立ち姿が、ぴしっとしてますもん」
俺は、人当たりのよい笑顔で、軽く、肩を、すくめた。
すくめた肩の、左右の落ち方が、対称だった。
二週間前まで、俺の肩は、左のほうが、二センチ、内側に巻いていた。それが、今朝、消えていた。消えていることを、俺は、自分の鏡で、確かめなかった。確かめなくても、肩の、空気との触れ方で、分かった。
午前中の打ち合わせで、俺は、いつもの倍の量の議題を、半分の時間で、片づけた。
片づけながら、自分の声の中の、語尾の処理が、安藤と話していたときの安藤の語尾と、薄く、似ていることに、ふと、気づいた。気づいたあと、俺は、その語尾を、すぐ、ふだんの自分の語尾に、戻した。戻すまでに、〇・三秒ほど、要した。〇・三秒のあいだに、誰も、気づかなかった。
◇
退勤後、俺は、まっすぐ、家には、帰らなかった。
会社の、四つ駅向こうの、裏路地のフットサルコートを、一時間、借りた。
借りたコートは、コインで、扉を開けるタイプの、無人コートだった。地下一階の、真四角の人工芝に、白いラインが、四角く引かれていた。客は、俺、一人だった。
俺は、コートの真ん中に、レンタルのボールを、ぽん、と置いた。
置いたボールを、しばらく、見ていた。
二十秒ほど、見ていた。
見ているあいだに、俺の体の中の、安藤の引き出しが、勝手に、開いていった。開いたところから、俺の足の裏に、薄い、青い線が、走った。線の向きを、俺は、頭で、考えなかった。
助走を、三歩、取った。
三歩目の軸足の踏み込みが、あらかじめ決められていたみたいに、ボールの真横、十二センチの位置に、ぴたりと、入った。
振り抜いた右足のつま先が、ボールの芯を、捉えた。
ボールは、二十メートル先の、向かいのゴールの、ちょうど右上の隅に、低い、撫でるような軌道で、吸い込まれていった。
ネットが、しゃらん、と一回だけ、薄く、鳴った。
俺は、ピッチの真ん中で、立っていた。
誰も、見ていなかった。
誰も見ていない場所で、俺は、初めて、自分の体から、別人の動きが、まるごと、出てきたのを、見た。
◇
二十分ほど、俺は、ボールを、蹴り続けた。
蹴り続ける間、俺の頭の中の書庫に、知らないグラウンドの匂いが、ちらちらと、混ざってきた。中学校の部室の、古い汗の匂い。土曜の朝の河川敷の、湿った砂利の匂い。プロの控え室の、消毒液の匂い。どれも、俺が、行ったことのない場所の、匂いだった。
行ったことのない匂いを、俺の鼻は、知っていた。
ふだんの俺なら、こういう不気味さは、心臓のあたりで、ひやり、と止まるはずだった。
今夜の俺は、ひやり、と止まらなかった。
止まらない代わりに、その匂いの一つ一つを、舌の上で、転がした。安藤の十年分の人生の匂いが、俺の舌の上で、ゆっくり、溶けていった。溶けたものを、俺は、ひとつ、ひとつ、飲み込んだ。
飲み込みながら、俺は、薄く、笑った。
他人の人生の匂いが、自分の中に、しみ込んでくる気持ち悪さを、俺の体は、もう、快感の名前で、呼び始めていた。
◇
家に帰って、俺は、テレビを、つけた。
つけたチャンネルは、いつものニュースのチャンネルだった。アナウンサーの声が、夜の十時前の、低めのトーンで、淡々と、原稿を読んでいた。
その途中で、画面の下のテロップに、速報の赤い帯が、流れた。
『元Jリーガー 安藤圭吾選手 体調不良によりサッカー教室を無期限休止』
俺は、リモコンを、テーブルから、手に取った。
取ったリモコンの上で、親指は、迷わなかった。迷う前に、もう、チャンネルを、一つ、隣に、進めていた。
画面が、別のニュースに、切り替わった。
切り替わった画面の中で、別のアナウンサーが、別の原稿を、読んでいた。
俺の右の手のひらの真ん中の、底の見えない器の縁から、薄い、別の泡が、立ち始めていた。
次の獲物の名前を、その泡は、もう、囁いていた。




