表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/58

泳げない魚

 決めたのは、安藤の体を取り込んだ、その夜のうちだった。


 頭の中の水野の書庫の、新しい棚の一つに、俺は、自分の会社の取引先の中で、スポーツ系のスポンサー枠を持っている企業のリストを、並べた。並べた瞬間、その中の一社、中堅医療機器メーカーの担当部長の顔が、いちばん上に、浮かび上がった。半年前の合同企画で、俺がまだ卑屈だった頃に、一度だけ昼食を一緒にした男だった。あの男の名刺は、まだ俺の名刺ホルダーの一番奥に、入っていた。


 その夜のうちに、俺は、メールを、書いた。


 文面は、卑屈にも、押しつけがましくもなかった。「先日のお話の続きで、御社が後援されている、瀬川選手のチャリティイベントに、関心がございます」。文末の改行の数まで、計算した上で、送信ボタンを、押した。


 翌日の昼前に、返事が来た。


「灰谷さん、奇遇だね。ちょうど、当日の関係者枠が一人分余っていて」


 画面の文字を読みながら、俺は、自分の胸の中の、底の見えない器の縁が、ふっ、と一段、下がるのを、感じた。


 器の底に、瀬川陽人の名前が、置かれていた。



  ◇



 慈善イベントの会場は、湾岸エリアの、新しい屋内プール施設だった。


 午後三時の開場時間より、俺は、十分早く、関係者入口から、入った。首から下げたパスは、紺色のリボンに、白い文字で「STAFF」と書いてあった。書いてある文字を、俺は、ちらりと、見ていなかった。見ていなかったのに、頭の中で、もうすでに、その四文字の発音を、舌の奥に、置いていた。


 ロビーには、すでに、関係者と、報道カメラが、入っていた。


 水と塩素の匂いが、ロビーの空気に、薄く、混ざっていた。その匂いの奥に、もっと薄い、別の匂いがあった。アスリートの汗を、シャワーで一度流した直後の、水道水と人体の交わった匂いだった。その匂いを、俺の鼻は、安藤の体の中の引き出しから、すぐに、聞き分けた。


 俺は、ロビーの隅の柱に、軽く、寄りかかった。


 寄りかかり方は、半年前の俺の寄りかかり方では、なかった。重心の落とし方が、もう、二十代後半のアスリートの、寄りかかり方に、近かった。



  ◇



 午後三時半。


 メインプールサイドの一段高い場所に、白いシャツの瀬川陽人が、現れた。


 初めて、生身の瀬川を、見た。


 テレビの中で見たときよりも、肩幅が、狭く感じられた。狭いのに、頸の後ろから、ふくらはぎまで、薄い、筋の通った縦の線が、まっすぐに、立っていた。アスリートというより、楽器みたいだった。長く、まっすぐに、調律された楽器みたいだった。


 俺の体の中の、安藤の引き出しが、ふっ、と一拍、跳ねた。


 跳ねたあと、安藤の引き出しが、自分の中で、こう、囁いた。


 ――あれは、別の階のものだ。


 俺は、その囁きを、聞かなかったふりをした。


 聞かなかったふりをしたまま、俺は、プールサイドの、子どもたちと瀬川が並んで写真を撮るスペースの脇に、移動した。



  ◇



 写真撮影が終わったあと、瀬川は、ホールの一角に設けられた、簡易な握手会のテーブルに、座った。


 子どもたちと、その親たちが、列を作った。


 俺は、列の、最後尾の、ひとつ手前に並んだ。最後尾だと目立つから、わざと、ひとつ手前にした。前に並んでいたのは、二十代後半の、瀬川のファンらしい女性だった。


 俺は、列の中で、自分の右手の中に、小さな汗を、握っていなかった。


 握っていない自分が、ふと、可笑しかった。


 二週間前の俺は、こういう場面で、必ず、汗を握っていた。汗を握って、その汗を、ハンカチで、何度も拭って、相手に出す手の温度を、必死に、ふつうに保とうとした。今日の俺の手のひらは、汗を握っていなかった。乾いていた。乾いている手のひらの中央には、ただ、底の見えない器が、ぽかんと、口を開けていた。


 器の口の縁が、乾いた、低い音で、ことん、と鳴ったような気がした。



  ◇



 俺の番が、来た。


 俺は、瀬川の正面に立った。


 近くで見る瀬川は、思っていたよりも、目尻が、優しかった。十二歳の頃から泳ぎ続けてきた、ということが、目尻の細い小皺の入り方に、薄く、出ていた。


「こんにちは」


 俺は、最初に、言った。


 声は、ただの、礼儀正しい大人の声を、出した。


「あの、後援企業の関係で、ご挨拶に。今日は、子どもたちのために、本当に、ありがとうございます」


「いえいえ、こちらこそ、いつも、ありがとうございます」


 瀬川の声は、想像通り、低く、よく通る声だった。


 俺は、自分の右手を、テーブル越しに、半歩、前に、出した。


 瀬川は、迷わずに、自分の右手を、出してきた。


 俺たちの二つの手のひらが、テーブルの白いクロスの上で、合わさった。



  ◇



 瀬川の手のひらは、薄かった。


 薄いのに、底に、薄い湖が、一つ、入っていた。


 俺の体の中の、底の見えない器が、その湖の縁に、唇のように、当たった。


 最初の一秒で、湖の表面が、ひと撫で、揺れた。


 その揺れの中に、瀬川の十二歳の夏が、あった。


 地方のスイミングスクールの、夕方の練習プールの、ターンの瞬間の、足の裏で壁を蹴った感触。ターンの直後に、頭の上で割れていく水の白さ。割れた白さの向こうに、コーチの「行けっ」という声の、かすれた響き。そのかすれの中の、自分の心臓の音だけが、ばくばく、と、別の生き物のように、暴れている感覚。


 俺の右手は、テーブルの上の瀬川の手を、笑顔の角度を変えずに、握っていた。


 二秒目で、湖の真ん中に、銀色の魚が、一匹、現れた。


 魚は、瀬川の体の中で、二十年間、泳ぎ続けてきた、彼自身の、形をしていた。


 俺の器の口は、その魚の、頭の先に、ちょん、と触れた。


 触れた瞬間、魚は、抵抗もせず、ただ、すうっ、と、俺のほうへ、流れ込んできた。流れ込みながら、魚は、自分の通ってきた、すべての水路を、俺の体の中に、敷き直した。


 水路は、俺の足の指の先から、頭頂まで、一筆書きで、描かれた。


 描かれた瞬間、俺の全身の皮膚が、いちど、海水に、漬け直されたみたいに、ぴ、とすべてのいちばん表面の感覚を、立て直した。


 三秒目には、もう、湖は、空になっていた。


「……はじめまして」


 瀬川は、自分の喉の奥で、ほんの一拍、声を、止めた。


 止めた、ということに、瀬川自身は、気づいていなかった。気づいていたのは、俺だけだった。


「あ、すみません、なんか、握手のとき、急に、立ちくらみみたいなのが」


「お疲れですね、本当に。今日は、ゆっくり、お休みください」


 俺は、瀬川の手から、自分の手を、自然な速度で、離した。


 離したあと、俺の右の手のひらの中央が、ほんの少し、湿っていた。瀬川の手の薄い汗が、薄く、移っていた。汗の塩分の中に、二十年分の、塩素の記憶が、薄く、混ざっていた。


 俺は、頭を下げて、握手会のテーブルから、離れた。



  ◇



 会場を出て、俺は、湾岸の、海に近い遊歩道を、歩いた。


 夕方の風が、海の方から、塩を、運んできていた。


 塩を含んだ風が、俺の頬を、撫でた瞬間、俺の体の表面の皮膚が、ぴ、と一度、立った。立ったあとで、皮膚の下のすべての毛細血管が、その塩に、ぴったりと、馴染んだ。馴染み方の精度が、生まれてからの俺の皮膚では、ありえない精度だった。


 俺の体は、もう、海の生き物の作り方を、知っていた。


 遊歩道の手すりに、俺は、軽く、両手を、添えた。


 添えた両手のひらの真ん中の、底の見えない器の中で、銀色の魚が、ゆっくりと、回遊を、始めていた。回遊の軌道が、俺の中の、安藤の十年分の動きと、最初の一周だけ、不思議に、寄り添った。寄り添ったあと、二周目からは、別々の階の、別々の海を、泳いでいった。


 俺は、潮風の中で、目を、閉じた。


 閉じた目の裏側に、もう、ジムも、フットサルコートも、なかった。


 代わりに、深い、深い、青い水の底だけが、広がっていた。


 水の底で、俺は、ふたり分の体を、持っていた。



  ◇



 翌朝、瀬川陽人は、いつものように、所属クラブの練習プールへ、向かった。


 始発のバスで、乗り換えなしの一本道だった。窓の外の街の景色は、いつもの月曜日の朝の景色だった。プールの匂いは、入口の自動扉を抜けた瞬間から、いつもの濃さで、瀬川を、迎えた。


 ロッカールームで、瀬川は、いつもの動きで、競泳用の水着に、着替えた。


 着替えるあいだ、自分の右の手のひらの、薄い違和感だけが、昨日からずっと、消えずに、残っていた。立ちくらみの残り、と瀬川は、自分に、説明した。説明しきった上で、プールサイドへ、出た。


 水温二十六度、と表示されていた。


 いつもの数字だった。


 プールサイドに立った瀬川は、いつもの呼吸の整え方で、息を、ふたつ、吸って、ひとつ、長く、吐いた。


 吐き終えたところで、両手を、頭の上で、組んだ。


 そして、いつもの、何百万回繰り返してきた助走で、スタート台の縁を、両足で、強く、蹴った。


 体は、空中で、いつもの角度に、なった。


 いつもの角度のまま、瀬川の指先が、水面に、いちばん最初に、入った。


 次の瞬間、水は、瀬川の体を、受け入れなかった。


 受け入れない、というのは、跳ね返した、ということではなかった。


 水は、ただ、そこに、ぴたり、と、壁のように、立っていた。


 二十年間、瀬川の友だちだった水が、その朝、プールの全面で、瀬川の体に、知らない人の顔を、向けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ