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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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〇・七秒の断崖

 その朝、瀬川は、いつもより三十分早く、所属クラブの練習プールへ行った。スタッフが照明を灯す前の、薄暗いプールサイドに、一人で立った。水面は、ターコイズの照明の角度を待たずに、廊下の蛍光灯の白さだけを、薄く、反射していた。


 瀬川は、しゃがんで、右手の指を、水の表面に、つけた。


 冷たさは、いつもの冷たさだった。塩素の匂いも、いつもの匂いだった。指先から、二十年分の感覚が、いつもの順番で、肘の内側まで、上がってくる、はずだった。


 上がってこなかった。


 指先から肘までの神経が、いつもの順番を、忘れていた。順番を忘れた神経は、ただ、ぼんやりと、水という液体に、触れているだけの神経になっていた。


 瀬川は、しゃがんだまま、プールの水面を、長い間、見ていた。


 水面は、瀬川を、見返さなかった。



  ◇



 午前七時の練習開始に、いつものメンバーが、そろった。


 瀬川より三歳下の若手が、瀬川の隣のレーンで、軽くストレッチを始めていた。さらに向こうのレーンには、瀬川と同期の、ベテランの中距離選手が、いつもの淡々とした顔で、ゴーグルを下ろした。


「先輩、おはようございます」


「ああ、おはよう」


 瀬川は、いつもの調子で、答えた。


 答えた声の中に、ほんの一拍、湿った音が、混ざった。後ろの若手は、その湿りを、気のせいだと思った。気のせいだと思える若手の鈍さを、瀬川は、その瞬間、すこし、うらやんだ。



  ◇



 メニューは、いつもの、二百のフリーから始まる、軽めの調整メニューだった。


 最初の五十メートルで、瀬川の自己ベストは、三十秒の前半まで、入っていた。今日の五十メートルは、三十一秒の真ん中で、止まった。


 五十メートルで、〇・八秒。


 壁にタッチした瞬間、瀬川は、自分のタッチが、〇・八秒分、後ろにいることを、もう、知っていた。


 知ったあと、コースロープを掴んで、息を整える振りをした。整える呼吸の中に、本当の意味で整えるべきものは、もう、なかった。整えるべきものは、瀬川の体の中では、なくて、瀬川と水の、間にあった。その間が、今朝、決定的に、ずれていた。


 二本目、三本目を、瀬川は、続けた。


 数字は、戻らなかった。


 戻らないどころか、数字は、ゆっくりと、悪化していった。


 四本目の途中、ターンの折り返しで、瀬川の右の手のひらが、壁を、いつもの位置で、捉え損ねた。捉え損ねた、という事実より、瀬川を冷やしたのは、捉え損ねる直前の、自分の体の中の予感が、なかったことだった。


 予感、という名前の、二十年前から自分の体の真ん中に住んでいた、小さな生き物が、今朝、いなかった。


 いない場所は、空っぽに、なっていた。


 空っぽは、水よりも、冷たかった。



  ◇



「瀬川」


 二十本目で、コーチが、プールサイドの上から、瀬川を呼んだ。


 四十八歳の、太い首の男だった。瀬川が中学生の頃から、ずっと、この男のもとで、泳いできた。瀬川の体の、どの部位の癖も、この男の頭の中には、写真のように、貼られていた。


「上がれ」


 瀬川は、コースロープを掴んで、ゆっくりと、プールから、上がった。


 上がったとき、足の指の付け根の、いつもの感覚が、どこにも、なかった。プールサイドのタイルの冷たさだけが、足の裏に、平らに、当たっていた。


 コーチは、タオルを、瀬川の肩に、無造作に、かけた。


「調整不足だ」


 ぼそりと、コーチは、言った。


「どっか、痛いとこないか」


「ないです」


「飯、食ってるか」


「食ってます」


「眠れてるか」


「……たぶん」


 コーチは、瀬川の顔を、しばらく、見ていた。


 見たあと、軽く、目を逸らした。目を逸らしたコーチの肩の落ち方の中に、瀬川は、自分のことを心配する気持ちと、自分のことを少しだけ疑い始めた気持ちの、二つが、半々に、混ざっているのを、見た。


「一回、精密検査、受けとけ」


 コーチは、最後に、そう言った。


 言葉の最後の母音が、いつもより、やや、低かった。



  ◇



 午後の自由練習の時間に、瀬川は、ほとんど人のいないプールに、もう一度、入った。


 今度は、誰の前でもなかった。タイムを計る計器も、止めていた。


 ただ、自分一人で、五十メートルを、何本でも、泳ぐつもりだった。


 最初の一本目を、瀬川は、いつもより、ゆっくり、入った。


 ゆっくり入ったのに、水は、いつもの優しさで、瀬川の体を、抱いてくれなかった。


 水は、ただ、そこに、あった。


 水と瀬川の体の間に、目に見えない、薄い、ガラスの膜が、一枚、できていた。膜の向こう側で、水は、たしかに、揺れていた。揺れているのに、その揺れが、瀬川の皮膚に、伝わってこなかった。


 膜は、瀬川の指の腹にも、あった。


 膜は、瀬川の喉の奥にも、あった。


 膜は、瀬川の心臓にも、あった。


 二本目で、瀬川は、五十メートルの真ん中で、息を、整えなくてもいいはずの場所で、一度、息継ぎをした。


 三本目で、瀬川は、ターンのあと、十メートルの間、自分の手の動きを、忘れた。


 四本目で、瀬川は、五十メートルを、泳ぎ切らずに、二十五メートルの壁に、手をついた。



  ◇



 壁に、手をついたまま、瀬川は、しばらく、動けなかった。


 二十年間、自分の体の延長だった水の中で、自分が、完全に、お客さんになっていた。


 お客さんは、二十年前の最初の日にも、いた。


 最初の日、五歳の瀬川は、市民プールの一番浅い場所の、子ども用の手すりに、両手で、しがみついていた。しがみつきながら、水の中の自分の足の指の、思った方向に動かない、もどかしさに、目を、ぎゅっと閉じた。閉じた瞼の裏側で、瀬川は、初めて、水と、自分の境目を、感じた。境目は、その日、ずっと、消えなかった。次の日も、その次の日も、瀬川の体の表面の、薄い壁になって、瀬川を、隔てた。


 その壁が、消えたのが、瀬川が八歳になった、ある夏の日だった。


 その夏の日、壁が消えた瞬間を、瀬川は、はっきり、覚えていた。


 その夏の日から、瀬川の体は、水と、一つの言葉で、話し始めた。


 今朝、その言葉は、消えた。


 消えた場所に、五歳の壁が、二十年ぶりに、戻ってきていた。


 戻ってきた壁の向こうに、瀬川の二十年間が、半身を入れたまま、出られずにいた。



  ◇



 瀬川の右の頬に、初めて、温かいものが、伝った。


 プールサイドの、誰もいない場所だった。


 誰にも見られていない場所で、瀬川は、初めて、自分が泣いていることに、気づいた。


 気づいたあとも、涙は、止まらなかった。止まらない涙が、自分のゴーグルの、ガラスの内側に、二粒、三粒、留まった。留まった涙の向こうの、壁の四角いタイルの目地が、ぼやけていった。


 「なんで」


 声に、ならなかった。


 ならなかった声が、瀬川の喉の奥で、白い、蒸気のような形をしていた。



  ◇



 しばらくして、瀬川は、震える足で、プールから、上がった。


 ロッカールームへ、戻った。


 誰もいないと思っていたロッカールームの、瀬川の隣のロッカーの前のベンチに、一人の男が、座っていた。


 二十代後半の、痩せた男だった。プールの利用者ではなかった。スポーツバッグの代わりに、白い大きな封筒を、両手で、握っていた。封筒の口の、印字の社名を、瀬川の目は、ぼんやりと、拾った。


 『品川アスリート・スポーツクリニック』


 男は、瀬川が入ってきたことに、気づかなかった。


 封筒の角を、両手の親指の腹で、何度も、なぞっていた。なぞる指の動きの中に、瀬川は、自分と、よく似た、何か、形のない焦燥の影を、見た。


 影の中の男の左足の踏み出し方が、ふと、ほんの一拍、遅れていることに、瀬川の目は、無意識に、気づいた。


 気づいたけれど、瀬川は、声を、かけなかった。


 かける気力が、まだ、戻ってこなかった。


 二人の男は、同じロッカールームの、隣のロッカーの前で、それぞれの封筒と、それぞれの予感に、別々に、捕まったまま、しばらく、動かずに、いた。


 二人とも、自分たちを、繋いでいるものの名前を、まだ、知らなかった。

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