万能の体
半分にしたのは、俺だった。
常務の質問に、俺は、奪った分析力と、奪った記憶力と、奪った交渉術を、無意識のうちに、層にして、答えた。答えた言葉の隙間に、瀬川の体の、長く、まっすぐに、調律された呼吸の間が、混ざっていた。混ざった間が、常務の追加の質問を、開く前に、半歩、引かせた。引かせたあとに、俺は、もう一段、踏み込んだ。踏み込み方の重心の落とし方は、安藤の体の引き出しから、勝手に、出てきた。
会議が終わって、エレベーターまで歩く廊下で、社外取締役の老紳士が、俺の肩を、軽く、叩いた。
「灰谷くん。きみ、何のスポーツ、やってるの」
「いえ、最近、ちょっと、ジムに通い始めただけです」
「ふうん。動きが、選手みたいだ」
老紳士は、言いたいことが、それ以上はないという顔で、頷いた。
頷いたあと、エレベーターのほうへ、ゆっくり歩いていった。
残された廊下で、俺は、自分の左手の、薬指の、第二関節のあたりを、ふと、内側へ曲げてみた。
曲げ方の角度は、瀬川が、ターンの前に、かすかに指先を畳むときの角度だった。
俺の薬指は、もう、競泳選手の指の癖を、覚えていた。
◇
その夜、俺は、銀座の、あの会員制バーで、業界紙の記者から、招待状を、一枚、もらった。
業界の新年会の、二次会の、半クローズドのパーティーの、招待状だった。
会場は、内幸町の、古いホテルの、最上階のラウンジだった。
新年から、二週間遅れの、二次会だった。
俺は、招待状の名前の欄を、見た。「ご招待 灰谷透真様」と、楷書で、書かれていた。半年前まで、俺の名前の頭に「ご招待」の三文字が、つくことは、なかった。三文字の下の「様」の角度を、俺は、紙の裏側から、軽く、撫でた。
撫でた指の腹に、薄い、紙の繊維の細さまで、感じた。
感じたあと、俺は、招待状を、内ポケットに、しまった。
◇
ホテルの最上階のラウンジは、思っていたより、薄暗かった。
壁の照明は、低い色温度の、間接照明だった。床は、深い、ダークブラウンの絨毯だった。絨毯の毛足が、革靴の底を、半分、沈めた。沈めながら、足音を、ぜんぶ、吸った。
ラウンジの中央の、丸い小さなテーブルの周りに、業界の人間が、十数人、立っていた。シャンパングラスを片手に、それぞれが、それぞれの相手と、低い声で、話していた。業界の中堅と、上の方の人間が、半々だった。半々の中の、上の方の三人のうち、一人の周りだけ、人の輪が、薄く、引いていた。
その一人だけ、椅子に、座っていた。
禿頭の、五十代後半の男だった。グレーのスリーピースのスーツの胸元に、控えめなチーフだけが、白く、見えていた。低い椅子の背もたれに、左の肘を、軽く乗せて、右手で、ロックグラスを、持っていた。グラスの中の、琥珀色の液体は、ほとんど、減っていなかった。
男は、誰とも、話していなかった。
話していないのに、男の周囲だけ、半円形の、見えない結界のような空間が、できていた。結界の縁の外側で、業界人たちは、男の方をちらちらと見ながら、声をかける順番を、互いに、計っていた。
俺は、男の正体を、ロビーの羽生さんから、もう、聞いていた。
久我山悟。
久我山グループ会長。年商三千億円。
俺は、自分の右の手のひらの中央の、底の見えない器の縁が、その男のグラスの琥珀色を、ふと、舐めかけたのを、感じた。
感じた瞬間、安藤と瀬川の二人分の引き出しが、同時に、ふっ、と俺の中で、声を、止めた。
二人とも、本能的に、「これは、別の階のものだ」と、知っていた。
知っているのに、俺は、結界の縁の方へ、足を、進めた。
◇
久我山は、俺が結界の縁に立った瞬間、こちらを、見た。
目が合った。
目の奥は、思っていたより、暗かった。暗いのに、底に、薄い、低い火が、点いていた。
久我山は、俺のことを、知らないはずだった。
知らないはずなのに、久我山の口元は、俺を見て、ほんの少しだけ、上がった。上がったあと、低い声で、言った。
「あんた、誰や」
関西の言葉だった。発音は、長年東京で生活した人間の、どこかが擦れた関西の言葉だった。けれど、語尾の落とし方は、まっすぐ、関西の方角を、向いていた。
「失礼します。中堅の電機部品メーカーの、灰谷と申します」
俺は、丁寧に、頭を下げた。下げる角度は、四十五度より、ほんの一度、深かった。一度深い角度を、久我山の目は、見逃さなかった。
「電機部品メーカーの、灰谷くん」
久我山は、名前を、口の中で、もう一度、転がした。転がしたあと、自分のグラスを、軽く、持ち上げた。
「あんた、平の、何やってる人や」
「ありがたいことに、来月から、新設の部署の、室長代理に」
「新設の部署なあ」
久我山は、ふっ、と短く、笑った。
笑った笑い方が、心の中の半分だけだった。残りの半分は、まだ、俺のことを、観察していた。
「あんたな。さっき、ラウンジに入ってきたとき、ドアの段差、目で計らんと跨いだやろ」
俺は、頭の中の書庫の、新しい棚を、慌てて、開けた。
たしかに、入口の段差を、俺は、見ずに、跨いでいた。安藤の引き出しが、勝手に、跨いでくれていた。
「気のせいです」
「気のせいやな」
久我山は、満足そうに、頷いた。
「気のせいやけどな、気のせいで、あれ、できる人間は、一人もおらん。あんた、なんか、隠してるやろ」
俺の喉の奥が、ほんの一拍、乾いた。
乾いたまま、俺は、笑顔の角度を、変えなかった。
◇
久我山は、それ以上、俺の隠し事に、立ち入らなかった。
代わりに、自分のグラスを、ゆっくり、傾けた。
琥珀色の液体が、グラスの縁を、半分だけ、湿らせた。
「ワシな、若い頃、丁稚や」
久我山の関西は、ふと、語りの調子に、なった。
「中卒で、奈良の田舎の問屋に、預けられた。十五歳のときや。十五歳の俺の右手の手のひらにな、うちの大将が、毎朝、塩をひと摘み、置いとった。塩を握って、それで、飯の前に、十回、土間を、走らされた。塩は、汗で、すぐ、溶ける」
「……はい」
「溶けた塩のあとに、何が残るかいうたらな。ひとつだけや。手のひらの真ん中に、薄い、白い、跡が残るんや」
久我山の指が、自分の右の手のひらの、真ん中を、ぽん、と一回、叩いた。
「あの跡の名前を、ワシは、四十年経ってから、ひとつ、見つけた」
俺は、息を、止めていた。
止めた息の中で、久我山の次の一言が、ゆっくりと、降りてきた。
「飢え、いう名前や」
飢え、という二文字が、俺の右の手のひらの中央の、底の見えない器の、底に、ぽとり、と、落ちた。
落ちた瞬間、器の中の銀色の魚と、安藤の足の裏の青い線が、二つとも、ふっ、と、姿を消した。
器の底に、ただ、薄い、白い、塩の跡が、一つだけ、残った。
◇
久我山は、笑った。
今度は、心の中の半分ではなく、もう一段、深いところから、笑った。
「あんたの右手の、真ん中。塩、置いてある人間の顔、しとるわ」
俺の口は、何も、言えなかった。
言えないでいる俺の前に、久我山は、自分の名刺入れから、薄い、シンプルな名刺を、一枚、抜いた。
抜いた名刺の表は、社名と、会長の肩書と、久我山の名前だけが、印字されていた。
久我山は、その名刺を、自分の万年筆の蓋を外して、ふと、裏に返した。
裏の白い紙の上に、ためらいなく、十一桁の数字を、書いた。
数字を書いたあと、その下に、四文字の漢字を、書き足した。
『直通 久我山』
久我山は、その名刺を、俺のほうへ、軽く、押し出した。
「来週、飯でも、食おうや。ちょっと、面白い話が、ある」
俺は、両手で、その名刺を、受け取った。
受け取った名刺の、裏の十一桁の数字の上に、俺の右の親指の腹が、薄く、汗を、置いた。
二週間ぶりの、本物の汗だった。




