報道の嵐
経理部の朝が一番好きだ、というのは、本当の話だった。フロアの照明がまだ半分しか点いていない時間に、自分のデスクで、ペットボトルのお茶を一口飲むあの瞬間が、沙月の一日の中で、いちばん、自分のものだった。
その瞬間のために、沙月は、朝の通勤途中の駅の売店で、必ず、その日のスポーツ紙を、二紙、買っていく。同じ会社の経理にいる先輩から、「数字を読む人間は、新聞の一面を、文字じゃなくて、レイアウトで読みなさい」と、五年前に教わった習慣だった。
その朝の二紙の一面の上半分は、両方とも、同じ顔だった。
濡れた髪を後ろに撫でつけた、若い男の、写真だった。
『瀬川陽人 代表選考会前 まさかのタイム激落ち 専門家「説明がつかない」』
もう一紙の見出しは、より、低い活字だった。
『元Jリーガー 安藤圭吾 原因不明の不調で サッカー教室を休止』
二人の名前が、別々の紙の、別々の段に、並んでいた。
並んだ並び方は、たまたま、ではないように見えた。
沙月は、駅のホームのベンチに、いったん、座った。
座って、二紙を、同時に、膝の上で、開いた。
◇
経理部のフロアは、その日も、いつもの朝の時間に、いつもの薄い静けさで、沙月を、迎えた。
沙月は、自分のデスクに、二紙を、表向きに、置いた。
ペットボトルの蓋を、ひねった。一口、飲んだ。
飲んだあと、沙月は、自分のノートパソコンの脇から、薄い、A六サイズの手帳を、引き出した。表紙の右下に、小さく「2025-α」と、自分の細い字で、書いてある手帳だった。半年前から、沙月が、誰にも見せずに、つけ続けている手帳だった。
手帳のいちばん新しいページを、開いた。
ページのいちばん上には、先月、沙月が走り書きした、三行の日付と、メモが、並んでいた。
・〇月二十二日 灰谷くんのプレゼンの言い回し、本郷さんの口癖
・〇月二十六日 食堂で本郷さんの話、箸が一瞬止まる
・〇月二十九日 左遷の朝、廊下で目を逸らされた
その三行の下に、沙月は、新しい一行を、足した。
・〇月三十日 灰谷くん、階段を、二段ずつ上がっていた
書いたあと、沙月は、その一行を、しばらく、見ていた。
昨日の夕方、エレベーターの混雑を避けて、非常階段で十二階まで上がった、その途中、踊り場で、灰谷とすれ違った。灰谷は、上から、降りてきた。降りてくるとき、灰谷の歩幅は、沙月が知っている、半年前までの灰谷の歩幅では、なかった。一段ずつ降りているのに、その一段ずつの歩幅の中に、不思議な、小さな、跳ねるような余白があった。
跳ねの正体を、沙月は、その夜、家のリビングで、検索した。
検索結果のひとつに、ある運動学の解説サイトの記事があった。
『陸上選手やサッカー選手の、階段のくだりに見られる、独特の弾性』
そのページを、沙月は、ブックマークに入れた。
入れたあと、沙月は、自分が、今、何を、しているのかを、自分で、説明できなかった。
説明できないまま、ブックマークを、消さなかった。
◇
午前十時、経理部の壁の小型テレビが、ワイドショーの特集に、切り替わった。
経理部の小型テレビは、いつもは、為替と日経の指数しか映さない。今日は、年配の男性アナウンサーが、いつもより低い声で、別の話題を、読み上げていた。
『相次ぐ、アスリートの突然の能力低下 専門家も困惑』
画面の上のテロップに、瀬川陽人の名前と、安藤圭吾の名前が、並んだ。
二つの名前の間に、白い、薄い線が、引かれた。線の上に、別のアナウンサーの声が、重なった。
「この一か月の間に、複数のトップアスリートが、原因の特定できない不調で、競技を離れる事例が報告されています」
経理部のフロアの誰かが、ぽつりと、呟いた。
「気の毒にねえ」
別の誰かが、答えた。
「メンタルって、怖いわよね」
沙月は、その会話に、加わらなかった。
加わらない代わりに、自分の机の二紙の、見出しの位置を、指で、たどった。たどった指の腹の下で、二人のアスリートの名前の活字が、薄く、並んでいた。
沙月の手帳の、新しいページの右上に、沙月は、もう一行を、書き足した。
・〇月三十日 瀬川/安藤、同時期。灰谷くんの「変化」の時期と、重なる。
書いた瞬間、沙月の指の付け根が、ほんの少しだけ、震えた。
◇
昼休み、沙月は、社員食堂の窓際の席で、自分の手帳を、もう一度、開いた。
窓の向こうの中庭に、誰かが、ベンチに座って、コンビニのおにぎりを食べていた。沙月の視線は、その誰かの、ふだんの輪郭の中に、灰谷透真の名前を、すぐに、見つけた。
灰谷は、おにぎりを、片手で、ゆっくりと、剥いていた。
剥き方が、半年前の灰谷の剥き方と、違っていた。半年前の灰谷は、おにぎりのフィルムの真ん中を、いつも、二回、引っ張ってからでないと、剥けなかった。今の灰谷は、一回で、フィルムの上半分を、抜いていた。抜いた瞬間、海苔の角度が、ぴたりと、おにぎりの白米に、戻っていた。
その手の動きの正確さを、沙月は、自分の手帳の、欄外に、絵で、描いた。
絵の脇に、小さく、「アスリートの手」と、書いた。
書いたあと、沙月は、自分の絵を、ぼんやりと、見ていた。
見ていた沙月の喉の奥で、ふと、低い声が、ひとつ、上がった。
――考えすぎだよね。
その声は、半年前にも、一度、上がったことのある声だった。半年前のあの声は、上がったあと、すぐに、自分の中に、消えた。今日のあの声は、上がったあと、消えなかった。消えないまま、沙月の喉の奥で、薄く、震えていた。
震えながら、沙月のペンは、止まらなかった。
止まらないペンが、新しい一行を、追加した。
・〇月三十日 考えすぎだよね、と思った瞬間、ペンが止まらなかった。
◇
午後の業務の合間、沙月は、廊下を歩く灰谷の後ろ姿を、見た。
灰谷は、コーヒーサーバーのほうへ歩いていく途中で、両手にファイルを抱えた若手の同僚と、すれ違った。
すれ違う瞬間、灰谷の体は、若手の右肩の角度に、合わせて、ほんの数センチ、左に、流れた。流れた幅が、ふだんの人間の流れ方より、二センチ、足りなかった。二センチ足りない幅で、灰谷の左肩は、若手のファイルの角を、ほんのわずかな差で、避けた。
避けたあと、灰谷は、振り返らなかった。
ぶつかっていたら、若手のファイルのいちばん上の書類が、廊下に散らばっていた、ことを、沙月は、自分の頭の中の数字で、計算した。計算した結果は、九割の確率で、ぶつかっていた。それが、ぶつからなかった。
沙月は、廊下の角の柱の影に、自分の体を、半分だけ、隠した。
隠した影の中で、自分の手の中の手帳を、いま一度、開いた。
最後のページに、沙月は、これまでの全ての日付と、灰谷の変化と、ニュースの日付を、もう一度、左右の二本の縦の線で、書き写した。
書き写したとき、沙月の二本の線は、奇妙なほど、隣り合って、上下していた。
沙月のペンが、しばらく、紙の上で、止まった。
止まったペンの下に、沙月は、ようやく、震える字で、最後の一行を、書いた。
・もし、この一致が、偶然じゃなかったら?
書き終えた手帳を、沙月は、すぐには、閉じなかった。
閉じる代わりに、両手で、表紙の角を、握った。
握った両手の指の腹の下で、表紙の角の革が、薄く、湿っていった。
湿った場所に、沙月の最初の、本物の、疑念が、薄く、染み込んでいった。




