表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/58

飢えた者同士

 看板は、出ていなかった。看板の代わりに、店の名前を、薄い炭の文字で書いた、小さな提灯が、引き戸の脇に、ぽつん、と下がっていた。提灯の灯りは、地面を照らすには弱く、空気の中に、煙のように、漂っていた。


 俺は、約束の時刻の、十分前に、路地の手前の角に、立った。


 立った場所から、店の引き戸まで、ちょうど、二十歩だった。二十歩を、俺は、頭の中で、何度か、数えた。数えながら、自分の右の手のひらの中央の、底の見えない器の、口を、もう一度、確かめた。器の縁は、湿ってはいなかった。湿らせては、いけない夜だった。


 約束の時刻の、ちょうど、五分前に、俺は、引き戸の前まで、歩いた。


 歩く幅は、ふだんの俺の幅と、まったく、同じにした。


 安藤の引き出しと、瀬川の引き出しを、両方とも、奥の棚に、しまった。



  ◇



 奥の小さな個室に、すでに、久我山は、座っていた。


 座卓の向こう側の、中央の座布団。背中は、まっすぐ。両手は、軽く、膝の上。三日前のラウンジの結界の中の久我山と、同じ姿勢のはずなのに、今夜のこの個室の中の久我山は、結界を、解いていた。


「灰谷くん。座って」


 久我山は、手のひらを軽く、自分の正面の座布団のほうへ、向けた。


 俺は、頭を下げて、座った。座布団の縁の角度を、四十二度に整えるような癖は、今夜の俺は、捨ててきた。捨ててきたつもりなのに、座ったあとの座布団の縁の角度は、四十二度に、なっていた。


「畏まらんでええよ」


 久我山は、最初の言葉で、俺の肩の力を、抜きにきた。


「ワシもな、こういうとこ来ると、いつまで経っても、丁稚やった頃の体が、奥のほうで、座布団の縁を、揃えにかかる。もう、ええんやけどな」


 俺は、思わず、薄く、笑った。


 笑った理由は、共感だった。共感が、本物だったか、安藤と瀬川の引き出しから漏れ出した「人間らしさのテンプレ」だったか、俺は、その夜、まだ、見分ける気が、なかった。


 見分けないまま、笑ったあと、俺は、初めて、頭を上げた。


 久我山は、すでに、俺のことを、見ていた。



  ◇



 最初の小付けが、運ばれてきた。


 白い平たい器の上に、薄く切った小柱の刺身と、小さな酢橘が、置かれていた。


 久我山は、酢橘を、自分の小指の腹で、軽く押した。


「中卒で、奈良の問屋に、預けられた話、こないだ、ラウンジで、ちょっとだけ、したやろ」


「はい」


「あれな、続きが、ある」


 久我山は、酢橘の汁を、自分の小柱の上に、二滴だけ、落とした。


「丁稚の最初の三年は、塩を握って走るだけや。三年目に、大将が、塩の代わりに、銅貨を、ひと枚、握らせた。銅貨や。一円より重い、薄い銅貨や。あんな、あれを握って走ると、汗で、銅貨の縁に、緑が、つく。緑のついた銅貨を、毎晩、ワシは、布団の中で、舐めとった」


 俺の喉の奥が、銅の味を、想像した。


 想像した瞬間、舌の上で、一拍、本当に、銅の味がした。


「銅は、苦い」


 久我山は、自分の小柱を、口に、運んだ。


「苦い銅を毎晩舐めとった人間はな、後年、上等な酒の旨さを、ふつうの人間の十倍、苦さの裏側で、感じる。世の中の、ぜんぶの旨いもんは、必ず、裏側に、苦さの段がある。その段を、足の裏で踏んで生きてきた人間だけが、上の段の旨さを、本当の意味で、噛める」


 俺は、自分の前の小柱を、ゆっくり、噛んだ。


 噛んだ瞬間、貝の真ん中に、薄い、塩気と、別の、薄い、苦みが、ひとつぶ、隠れていた。隠れていたものを、俺の舌は、初めて、ちゃんと、見つけた。


 見つけた俺の手のひらの中央の器の縁が、また、ふっ、と一段、低く、鳴った。



  ◇



 お椀が、運ばれてきた頃、久我山は、自分の半生の、もっと奥の話を、ぽつぽつと、始めた。


 奈良の問屋の大将に、二十歳で殴られて、関西の電子部品の零細商社に、転がり込んだ話。三十歳で、その零細を、自分の名前で、買い取った話。四十歳で、最初の大きな失敗をして、信用していた専務に、自社株を、半分、持ち逃げされた話。その専務を、二年かけて、追い詰めた話。追い詰めたあとで、二度と関わらない、と決めた話。


 久我山の関西の発音は、語りの途中、何度か、東京の発音と、ぶつかった。ぶつかるたびに、久我山は、ふっ、と笑って、関西のほうを、選び直した。


「人間な、いちばん怖いのはな、敵やない。味方の顔した、半分だけの味方や」


 久我山の指が、お椀の蓋の縁を、軽く、叩いた。


「半分だけの味方は、必ず、お前を、半分だけ、裏切る。ぜんぶ裏切るやつより、半分だけ裏切るやつが、ぜんぶの仕事を、潰す」


 俺は、自分の喉の奥で、ふと、朝比奈沙月の顔が、よぎりかけた。


 よぎりかけた顔を、俺は、お椀の湯気の向こうに、流した。


 流したあと、久我山の言葉の、いちばん大事な部分が、降りてきた。



  ◇



「灰谷くん」


 久我山は、姿勢を、変えなかった。


「ワシのグループに、ベンチャーがひとつ、ある。ヘルスケアのデータ解析の、まだ三十人ほどの会社や。前の社長が、ワシの遠縁でな、健康を崩して、半年前に降りた。今は、ワシが、外から、無理やり、舵を持ってる」


「はい」


「あそこの、取締役のポストが、ひとつ、空いとる」


 俺の右の手のひらの真ん中の器が、ふと、そのひと言で、ぴ、と立った。


「あんたは、業界の経験が浅い。専門知識も、たぶん、半分は、ない。知らんとこは、ワシが、後ろから、教える。教える代わりに、あんたの、その『気のせいの足の運び』を、ワシのそばで、半年、見せてくれ」


「……俺、で、いいんでしょうか」


「いい、悪いの話やない。やる、やらんの話や」


 久我山は、初めて、俺の目を、ぴたり、と射た。


 射た目の奥の、薄い、低い火が、ふと、強くなった。


「あんたの右手の真ん中の、塩の白い跡な。ワシの跡と、形が、似てる。形が似てる人間と組むのは、ワシの、四十年の決まりや」


 俺は、自分の右の手のひらを、座卓の下で、ぎゅ、と握った。


 握った中央の器の中で、銀色の魚と、青い線と、塩の跡が、三つとも、ふと、息を、潜めた。


 潜めたまま、俺の口は、答えていた。


「やります」


 迷いは、なかった。


 迷いが、なかったことに、俺は、自分でも、ぎりぎり、震えた。



  ◇



 最後の水菓子が、出る前に、久我山は、自分の盃の酒を、一口だけ、含んだ。


 含んだ酒を、舌の上で、二回、転がしてから、ゆっくり、飲み込んだ。


 飲み込んだあと、低い声で、言った。


「灰谷くん」


「はい」


「あんたを、引き上げる。ワシの全力で、引き上げる」


「……ありがとうございます」


「ただしな」


 久我山の指が、座卓の上の、自分の盃の縁を、ことん、と一回、軽く、弾いた。


 その弾いた音が、個室の、紙の障子の繊維まで、届いた。


「ひとつだけ、約束、しろ」


 俺は、息を、止めた。


「嘘だけは、つくな」


 ふた言で、久我山の声は、終わった。


 終わったあとに、続きの言葉は、なかった。続きが、要らない言い方だった。


「ワシはな、嘘つきが、いっちゃん、嫌いや」


 俺は、座布団の上で、自分の頭を、ゆっくり、下げた。


 下げた頭の中で、俺の舌が、自分の舌の付け根の、底の見えない器の口に、ぴたり、と、新しい、薄い、ふたを、被せた。


 ふたの下の器の中で、銀色の魚と、青い線と、塩の跡が、三つとも、息を、止めた。


 止めた息のいちばん奥で、俺の中の、いちばん古い灰谷透真の声が、ほんの一拍だけ、薄い、悲鳴のような、ものを、上げた。


 上げた悲鳴を、誰にも、聞かれないように、俺は、もう一度、頭を、下げ直した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ