崩壊速度
布団の中で、両手を、頭の上で組んだ。組んだ指の間に、何の、薄い糸も、通っていなかった。糸の場所には、ただ、布団の生地の、ふつうの綿の感触だけが、あった。
瀬川は、目を、開けた。
天井の電灯の傘の角度が、いつも通りだった。いつも通りの天井の下で、瀬川の頭の中だけが、いつも通りでは、なかった。
今日、自分は、たぶん、予選で、落ちる。
落ちる、ということを、選考会の朝の布団の中で、確信している自分が、瀬川には、いちばん、信じられなかった。
◇
会場の屋内プールに着いたとき、瀬川は、入口の前で、すでに、三本のマイクに、囲まれた。
顔の知っているスポーツ紙の記者が、二人。知らないテレビ局のクルーが、一組。
「瀬川選手、調子は、いかがですか」
「先週のタイム激落ちについて、ご自身の言葉で」
「精神面で、何か、あったのでしょうか」
瀬川は、半年前まで、こういうマイクの群れに対して、いつも、笑顔で答えていた。笑顔の質を、長年のコーチが、最低限度、整えてくれていた。今日の瀬川は、笑顔の整え方を、忘れていた。
忘れたまま、瀬川は、頭を、軽く、下げた。
「失礼します」
その三文字だけを、低い声で、置いて、瀬川は、選手入口の中へ、入った。
マイクの群れは、瀬川の背中に、何か、続けて、声を、ぶつけた。
声は、ぜんぶ、自動扉の閉まる音に、半分、潰された。
◇
予選の召集が、かかった。
瀬川は、コースの三番に、指定されていた。
スタート台の上に、上がった。両足の指の付け根を、いつもの位置に、置いた。置いた感覚の中の、いつもの予感が、なかった。
ピストルの音が、鳴った。
瀬川の体は、空中で、いつもの角度を、作った。作った角度のまま、指先から、水に入った。
入った瞬間、水は、もう、瀬川の体と、話さなかった。
二十五メートルで、瀬川は、隣のレーンの若手の体に、すでに、半身、抜かされていた。
五十メートルのターンで、瀬川は、自分の体の中の、最後の、二十年分のストックを、ぜんぶ、足の裏で、壁に、叩きつけた。叩きつけた壁の感触が、ふだんより、二センチ、後ろに、ずれていた。
残り五十メートルの間に、瀬川は、自分の体の中で、自分の名前を、何度か、呼んだ。呼んでも、誰も、返事を、しなかった。
最後の五メートルで、瀬川は、初めて、競泳人生で、ストロークの数を、自分の意識で、数えていた。数えなければ、ストロークが、続かなかった。
ゴールタッチの瞬間、電光掲示板の数字を、瀬川は、見なかった。
見なくても、わかった。
予選、落選。
◇
プールから上がったあと、瀬川は、自分のレーンの脇で、しばらく、コースロープを、握っていた。
握った両手のひらの中央が、薄く、白かった。
誰かが、肩に、タオルを、ふわりと、かけた。
顔を、上げた。
長年のコーチだった。
コーチは、いつものぼそりとした声で、こう言った。
「上がれ」
「……すみません」
「謝るな」
コーチは、それ以上、言わなかった。
言わない代わりに、瀬川の肩を、薄く、軽く、二回、叩いた。叩き方の中に、コーチが、これまで瀬川に向けたことのない、別の種類の感情が、混ざっていた。
その感情の名前を、瀬川は、その場では、見たくなかった。
◇
控え室を出た廊下で、もう一度、マイクの群れに、囲まれた。
今度のマイクは、入場のときの三本では、なかった。十本近くに、増えていた。テレビ局のクルーも、複数になっていた。
「瀬川選手、敗退の感想を」
「スランプですか」
「故障ですか」
「精神面の問題、と見ていいですか」
瀬川は、廊下の、白い壁を、背にして、立った。
立ったまま、マイクの群れの、いちばん前の、肩幅の狭いテレビ局の女性レポーターの顔を、ぼんやりと、見ていた。レポーターの目は、優しかった。優しいまま、瀬川の言葉を、待っていた。優しさの裏に、視聴率の二文字が、薄く、貼られていた。
「……分かりません」
瀬川は、ようやく、それだけを、言った。
「自分でも、何が、起きてるのか、分からないんです。それを、どう、説明すればいいのかも、分からないんです」
自分の声が、廊下の壁に、反射した。
反射した自分の声が、自分の耳に戻ってきた瞬間、瀬川の喉の奥が、薄く、湿った。
湿ったところを、見せないように、瀬川は、頭を、下げた。
下げたまま、マイクの群れの間を、歩いた。
◇
帰りの電車の中で、瀬川は、スマートフォンの画面の、自分のSNSのタイムラインを、ゆっくり、スクロールした。
タイムラインの上半分は、ぜんぶ、自分の予選落ちの記事と、そのリプライで、埋まっていた。
応援のリプライと、心配のリプライと、心ない言葉のリプライが、半々だった。半々の真ん中に、たまに、知らないアカウントが、瀬川を擁護するリプライを、長文で、書いていた。長文の内容は、たいてい、奇妙な精神論か、薬物の陰謀論だった。
瀬川は、自分のスクロールする指を、途中で、止めた。
止めた画面の真ん中に、自分のフォロワーの誰かが、リポストした、別の記事の見出しが、あった。
『元Jリーガー 安藤圭吾 体調不良で、子どもサッカー教室を 無期限休止』
その記事の、添付の、安藤の写真の中の、薄い、不器用な笑顔を、瀬川は、しばらく、見ていた。
見ていたら、ふと、ロッカールームの、隣のロッカーの前のベンチの、白い封筒を握っていた、痩せた男の後ろ姿が、瞼の裏に、戻ってきた。
封筒の社名は、たしか、品川の、スポーツ系の、クリニックだった。
瀬川は、ふと、自分の、知り合いの、知り合いの、知り合い、を、辿った。
辿った先に、現役時代の安藤と、同じトレーニングセンターを使っていた、別競技の知人がいることを、思い出した。
◇
夜の十時を過ぎた頃、瀬川は、その知人経由で、安藤圭吾の、個人のメッセージのアカウントの、IDを、手に入れた。
手に入れたIDの上で、瀬川の親指は、しばらく、迷った。
迷ったあと、ゆっくりと、メッセージを、打った。
『はじめまして。瀬川陽人です。
突然のご連絡、申し訳ありません。
もし、ご迷惑でなければ、いちど、お話を、させていただきたいことが、あります。
今、自分の体に起きていることについて、誰にも、相談できる相手が、いません。
もしかして、安藤さんも、似たようなことを、抱えていらっしゃるのではないか、という、勝手な、推測です。
間違っていたら、本当に、申し訳ありません。』
瀬川は、文面を、三回、読み直した。
読み直すたびに、自分の文面の、最後の三行の中の、勝手な、という三文字が、やけに、強く、見えた。
三回目に、瀬川は、その三文字を、消さなかった。
消さないまま、送信ボタンを、押した。
押したあと、画面の上に、薄い「送信済み」の文字が、出た。
出た文字を、瀬川は、しばらく、見ていた。
◇
返事は、十二分後に、来た。
画面の通知が、薄く、揺れた。
瀬川は、震える親指で、トーク画面を、開いた。
開いた画面の、いちばん新しい一行に、たった、五文字だけが、並んでいた。
『……お前も、か』
その五文字の、いちばん最後の、か、の文字の下に、安藤の入力中を示す、薄い、三つの点が、ゆっくりと、揺れ始めた。
揺れている三つの点の向こうに、安藤の指が、何かを、ためらいながら、打っているのが、見えるような気がした。
瀬川は、画面を、両手で、握りしめた。
握りしめた両手の、中央が、初めて、薄く、温かかった。
温かさの正体は、たぶん、二人とも知っている、共通の、震えの、温度だった。




