帝王学
久我山グループの傘下の、ヘルスケア関連のビッグデータ解析の、社員二十九人の、まだ、若い会社だった。社員の平均年齢は、二十七歳。オフィスは、東京駅の八重洲口から徒歩三分の、新しいビルの八階の半フロア。窓の外には、丸の内の高層ビル群の上半分だけが、横に、ずらりと、並んで、見えた。
俺の取締役就任の辞令は、久我山の、肉筆の決裁書、一枚で、出た。
肉筆の決裁書を、初めて見たとき、俺は、その紙の角が、自分のスーツの内ポケットの中で、薄く、震えるのを、感じた。
◇
最初の月の、最初の十日で、俺は、会社の、ぜんぶの、数字を、覚えた。
ぜんぶ、というのは、誇張ではなかった。
売上高、原価、販管費、四半期ごとの推移、契約先の業種別構成比、契約単価の中央値、解約率、社員一人当たりの売上高、その内訳、ぜんぶ。前社長の遠縁の男が、半年前まで、月次で出していた管理会計の数字も、PDFファイルの全ページを、俺の頭の中の水野の書庫の、いちばん見やすい棚に、ならべた。並べたあとで、結城の引き出しから、薄い、青い分析の線が、勝手に、棚の上を、走った。線の上に、いくつかの異常値が、薄く、光った。
光ったうちの三つを、俺は、初日の役員報告で、久我山に、指摘した。
「会長、この三つの数字、たぶん、前社長のときに、やや、操作されてます。意図的にではなく、たぶん、無意識の、現実逃避で」
「ほう」
久我山は、椅子の背もたれに、軽く、寄りかかった。
「どこを見て、そう言うた」
「直近の四半期の、解約理由のテキストデータの、形容詞の偏りです。本当に解約された理由よりも、社員が、自分たちの責任を、軽く感じられる方向に、要約されています。要約のクセが、半年で、徐々に、片方に寄っています」
久我山は、しばらく、俺の顔を、見ていた。
見たあと、ふっ、と、低く、笑った。
「あんた、ヘルスケアのデータ解析の素人やったやろ」
「素人、です」
「素人がな、初日に、そこまで言うたら、本物の素人や」
久我山の指は、自分の机の引き出しを、ゆっくり、開けた。
引き出しの中から、薄い、背表紙の柔らかい、自作の手帳のようなものを、出した。
「これな、ワシが、四十年前に、初めて、会社を買うたときに、自分で、作った手帳や。数字の読み方の、いちばん最初の二十ページだけ、書いてある。あんたに、貸す」
俺は、両手で、その手帳を、受け取った。
受け取った手帳の表紙の革に、四十年分の、誰かの手のひらの、薄い跡が、ふたつ、ぴたりと、ついていた。
◇
二週目から、久我山は、俺を、会長室に、呼ぶ回数を、増やした。
会長室は、グループの本社ビルの、十六階にあった。窓の向こうには、皇居の森の上半分が、見えた。森の上半分の色は、その季節、薄い茶色と、深い緑が、半々に、混ざっていた。
久我山は、会長室の机の前ではなく、応接スペースの、低い椅子に、俺を、座らせた。
座らせて、自分も、向かいに、座った。
茶色のローテーブルの上に、白い湯呑みが、二つ、置かれた。
茶を、ひと口、飲んでから、久我山は、いつもの低い声で、こう、言った。
「灰谷くん。今日はな、人の動かし方の話を、するわ」
「はい」
「いきなりな、結論から言うで。人をな、動かすのに、いちばん、要らんもんは、説得や。説得は、相手を、動かさへん。説得した瞬間にな、相手は、心の奥のほうに、ひと足、引きよる」
久我山は、自分の右手の親指の腹で、湯呑みの縁を、軽く、叩いた。
叩いたあと、俺の目を、まっすぐ、見た。
「人を、動かすのは、説得やない。場や」
「場、ですか」
「あんたが、相手より、ほんの半歩だけ、上の場所に、立ってる、いう状況を、作るんや。半歩や。一歩は、要らん。半歩でええ。半歩、上に立てば、相手は、勝手に、半歩、こっちに、寄ってくる」
半歩、という言葉が、俺の頭の中の書庫の、新しい棚に、ぽとり、と、落ちた。
落ちた瞬間、俺の中の、安藤の引き出しと、瀬川の引き出しが、二つとも、ふと、半歩、寄ってきた。
◇
三週目に、俺は、会社の中の、いちばん古株の、四十代の主任を、一人、自分の部屋に、呼んだ。
主任は、前社長時代から、解約率の悪化に、責任を感じて、半年、社内で、声を、潜めていた人だった。俺は、彼に、自分のデスクの、椅子を、向けて、ゆっくり、座らせた。
「主任。あなたの、解約理由のテキストの読み方、半年前までと、半年後で、ずいぶん、変わってますね」
「……はい」
「変わったのは、あなたが悪いのではなく、あなたの上の人が、変わってほしいと、無言で、頼んだからだ、ということを、僕は、もう、データで、知っています」
主任の目元が、ほんの一瞬、揺れた。
「これから、半年だけ、僕の前では、半年前の読み方に、戻してみてください。半年経って、何か悪いことが起きたら、僕が、ぜんぶ、引き受けます」
主任は、しばらく、自分の手の甲を、見ていた。
見たあと、ゆっくりと、頷いた。
頷いた頷きの中の、薄い、温かい湿りを、俺は、安藤の引き出しから流れてきた、人を見る目で、ちゃんと、確かめた。
確かめたあと、俺は、主任に、薄い笑顔を、ひとつ、返した。
笑顔の表面の温度と、俺の手のひらの中央の器の温度は、一度も、つながっていなかった。
◇
四週目の終わり、四半期の業績の中間レビューで、俺は、会長室に、報告に行った。
報告は、十五分で、終わった。
数字の改善は、まだ、本格的には、来ていなかった。けれど、来る、という方向の、薄い、青い、分析の線は、もう、引かれていた。久我山は、俺の説明を、ぜんぶ、黙って、聞いた。聞き終わったあと、自分の机の上の、薄い、折りたたみ式のメモ帳に、一行だけ、何かを、書いた。
書いたあと、立ち上がった。
立ち上がった久我山は、応接スペースの窓のほうへ、ゆっくり、歩いていった。
窓の前に、立った。
窓越しに、皇居の森の、午後三時の光を、しばらく、見ていた。
俺は、自分の椅子から、立ち上がらずに、その背中を、見ていた。
◇
久我山の背中は、薄かった。
薄いのに、その背中の真ん中の、肩甲骨の間のあたりに、四十年分の、何か、層になったものが、ぎゅ、と詰まっていた。詰まっているものの形は、俺の中の、結城の分析の引き出しからは、はっきりとは、見えなかった。けれど、その形が、俺の右の手のひらの中央の器の、底の見えない深さと、まったく同じ形をしている、ということを、俺の体は、わずかに、嗅ぎ取っていた。
俺の右手の親指の付け根から、ふと、薄い、青い、線が、走った。
走った線は、俺の意思と、関係なかった。
俺の右手は、ふだんなら、出さない速度で、ふっ、と、半分、座面の脇から、持ち上がった。
持ち上がった右手は、自分の前の、空気の中に、二十センチほど、進んだ。
進んだ二十センチの先に、久我山の薄い背中の、肩甲骨の間が、あった。
◇
俺の左手が、自分の右の手首を、ぎゅ、と掴んだ。
掴んだ左手の指の腹の中で、右手の脈が、ふだんの倍の速さで、暴れていた。
暴れている右手を、左手は、強引に、自分の膝の上に、戻した。
戻したあと、俺は、自分の額に、薄い、冷たい汗が、ひと筋、伝うのを、感じた。
久我山は、まだ、窓の外を、見ていた。
俺の動きには、気づいていなかった。
気づいていない久我山の背中の中央を、俺の右の手のひらの真ん中の器の縁が、薄く、舐めたがった。
舐めたがった器の縁の上に、俺は、自分の中の、いちばん深いところから、声を、ひとつ、置いた。
――まだ、早い。
その声は、「奪わない」では、なかった。
「今は、まだ」だった。
「今は、まだ」、の四文字を、自分の口の中で、もう一度、転がしたとき、俺の左手の握りの力が、ふと、ほんの一段、緩んだ。
緩んだ瞬間、俺は、自分の中の、いちばん古い灰谷透真の輪郭が、また、薄く、削られていく音を、聞いた。
音は、誰にも、聞こえなかった。
会長室の、午後三時の、皇居の森の上半分の光だけが、その音を、薄く、見ていた。




