原因不明
画面の中の自分の体が、二十五メートルで、隣の若手に、半身、抜かれていった。映像のスローモーションが、ゴール前の最後の五メートルで、瀬川の右手のかきの幅が、ふだんよりわずかに、狭いことを、丁寧に、視聴者に、見せていた。映像の脇のテロップに、「自己ベストから〇・八秒落ち 原因不明」と、太い赤の文字が、置かれていた。
その映像の隣に、別の選手の顔が、並んだ。
元Jリーガーの、安藤圭吾の写真だった。
二人の名前の真ん中に、白い、薄い線が、引かれた。線の上の見出しに、こう、あった。
『相次ぐアスリートの能力低下 専門家も困惑』
画面のスタジオに、解説者の二人が、座っていた。整った眉のスポーツ医学者と、若いプロ野球解説者だった。スポーツ医学者は、慎重な言い回しで、「オーバートレーニング」と「メンタル」の二つの言葉を、何度か、繰り返した。プロ野球解説者は、「やはり、ご本人にしか、分からない領域ですね」と、丁寧に、答えを、避けた。
誰の言葉も、何の説明にも、ならなかった。
画面の左下の小さなテロップに、瀬川の名前が、もう一度、表示された。
その瞬間、テレビの前に座っていた一人の男が、ゆっくりと、自分のメモ帳に、こう、書きつけた。
『複数のトップアスリートが、同時期に、説明不能な不調。偶然、と片付けて、いいのか』
◇
黒田恭介、四十歳、フリーのルポライター。
神保町の、古い雑居ビルの三階に、三畳の事務所を、借りていた。事務所の壁の三面は、ぜんぶ、本棚で、覆われていた。本棚に入りきらない資料の山が、机の脇に、四つ、立っていた。机の上には、深夜のテレビの音と、ステンレスのマグカップに半分残った、冷めた珈琲だけが、あった。
黒田は、テレビを、消した。
消したあと、机の引き出しから、新しい白いノートを、一冊、取り出した。
ノートの表紙の、いちばん上の真ん中に、太い水性ペンで、こう、書いた。
『Loss』
四文字の下に、瀬川陽人と、安藤圭吾の名前を、横並びに、書いた。
二人の名前の下に、それぞれの、不調が報じられた、最初の日付を、書いた。
日付の差は、十二日だった。
黒田は、その十二日を、しばらく、見ていた。
見たあと、二人の名前の下に、薄い字で、こう、付け足した。
『同じ手の感触を、体のどこかに、覚えていないか』
◇
同じ夜、瀬川陽人は、自分のアパートのリビングの、ローテーブルの前で、ノートパソコンを、開いていた。
画面の右下の、メッセージアプリの、新しい通知の窓が、薄く、揺れていた。
通知の発信者の名前は、安藤圭吾、だった。
昨晩、瀬川が、震える親指で、送ったメッセージへの返信は、すでに、何往復か、続いていた。今夜の連絡は、テキストの、やり取りで、限界に来ていた。お互いに、自分の言葉が、文字の上で、必ず、半分、抜け落ちる、ということを、二人とも、感じていた。
画面の中で、安藤からの、新しい一行が、ぽとり、と、落ちてきた。
『ちょっと、顔、見て、話せませんか。直接、会う前に、画面越しでも』
瀬川は、その一行を、二回、読んだ。
二回読んで、自分の指で、了承の文字を、打った。
数秒後に、ビデオ通話の、薄い、呼び出し音が、鳴った。
◇
画面の中の安藤圭吾の顔は、瀬川が想像していたよりも、ずっと、痩せていた。
頬の輪郭が、テレビの中の、現役時代の写真の頬とは、別人だった。目の下の薄い影の中に、瀬川は、自分の朝の洗面所の鏡の中の、自分の目の下の影と、同じ色を、見た。
「……はじめまして。安藤です」
「瀬川です。突然、すみません」
「いえ。連絡、嬉しかったです」
安藤は、ふと、気の良い、子どもみたいな、薄い笑顔を、見せた。
その笑顔の、いちばん奥の、目尻のあたりが、瀬川の予想より、ほんの少しだけ、暗かった。
二人は、しばらく、お互いの顔を、見ていた。
見ていただけで、もう、半分、伝わってしまったものがあった。
伝わってしまったあとに、何を話せばいいか、二人とも、半分、迷った。
◇
「あの」
最初に、口を開いたのは、安藤だった。
「俺、今から、一個だけ、変な質問、していいですか」
「はい」
「自分でも、こんなこと、聞くの、おかしいと思うんですけど」
安藤は、自分の右の手のひらを、画面のカメラのほうへ、軽く、上げた。
「瀬川さん。あなたが、最初に、自分の体が、おかしくなった、その日の、前日か、当日に、誰かと、握手、した記憶、ないですか」
瀬川の喉の奥が、ふと、低い場所で、止まった。
止まったまま、瀬川は、自分の右の手のひらを、ゆっくり、上げた。
画面の中の二人の右の手のひらが、お互いに、薄く、向き合った。
「あります」
瀬川は、自分の声の中の、ほんの一拍の震えを、隠さなかった。
「慈善イベントの、握手会で。スポンサーの関係者だ、っていう、男の人と。十秒くらいの、握手でした。あの夜から、水が、ただの液体に、なりました」
画面の中の安藤の目が、ほんの一瞬、見開かれた。
見開かれたあと、安藤は、ゆっくりと、首を、縦に振った。
「俺も、です」
声は、低く、震えていた。
「ジムで知り合った、ビジネスマンの男性と、最終日に、握手しました。十五秒くらいの、長さの。あの翌朝から、ボールを、蹴れなく、なりました」
◇
画面の中の二人の右の手のひらは、しばらく、二人とも、下がらなかった。
下がらないまま、二人の沈黙の中に、薄い、低い、もう一つの音が、ゆっくりと、入ってきた。その音は、二人とも、初めて聞く音だった。けれど、二人とも、その音の名前を、すぐに、知った。
怒りでは、まだ、なかった。
恐怖の、ひと段、奥にある、別のものだった。
偶然ではない、という、低い、低い、確信の音だった。
「安藤さん」
瀬川は、ゆっくり、口を開いた。
「その、ビジネスマンの男の、顔、覚えてますか」
「……覚えてます。痩せた、地味な、三十代の男性です。営業の、人だ、って」
「俺の見た男の人も、痩せた、地味な、三十代でした」
画面の中の二人は、しばらく、お互いの目を、見ていた。
見ていた目の中に、それぞれが、別々のロッカールームで、別々の握手の場面で、見た、同じ男の、薄い、痩せた、地味な輪郭が、薄く、重なっていった。
重なった輪郭の真ん中に、まだ、名前は、なかった。
名前のない輪郭の縁が、二人の画面の中で、ふっ、と、初めて、灯りを、持った。
◇
ビデオ通話を、切ったあと、瀬川は、ノートパソコンの脇の、自分の小さなノートに、震える字で、こう、書いた。
『痩せた、地味な、三十代の男性。営業マン風。十秒以上の、握手。』
書いたあと、瀬川は、その一行を、しばらく、見ていた。
見ていた瀬川の喉の奥に、二十年分の、水の中の、銀の魚が、ふと、もう一度、薄い、声を、上げた。
その声は、今度は、悲鳴では、なかった。
名前のない、低い、低い、最初の足音だった。
誰かを、追う、足音だった。
瀬川は、立ち上がって、リビングの窓のほうへ、歩いた。窓の外の、夜の街灯の灯りが、いくつも、薄く、瞬いていた。瞬きの数を、瀬川は、数えなかった。数えなかった代わりに、その灯りの中の、どれか、ひとつの灯りの下を、たぶん、自分の知らないどこかで、あの男も、いま、歩いている、と思った。
歩いている、ということを、瀬川は、半年ぶりに、自分の体の中の、いちばん底の、二十年分の魚の場所で、信じた。
信じた、というのは、瀬川にとって、勝つ、とほぼ同じ意味の、四文字だった。




