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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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兄の電話

 不動産屋が、最初に紹介してきた部屋だった。家賃を聞いて、俺が、半年前なら、無言で、店を出た金額だった。今の俺は、その金額を聞いた瞬間、頭の中の水野の書庫の、新しい棚で、自分の月の収入と、月の支出と、半年後の手取りの推移を、〇・四秒で、計算し終えていた。計算の結果は、余裕、だった。


 契約書のサインを、俺は、ためらわなかった。


 ためらいの代わりに、俺の右の親指と人差し指の腹が、その契約書の角を、軽く、撫でた。撫でた感触の中に、紙の繊維の細さまで、薄く、入った。


 引っ越しの日の夜、俺は、ぜんぶの段ボールを開ける前に、リビングの大きな窓の前に、立った。


 窓の外には、六本木の交差点と、東京タワーの、半身が、見えた。


 タワーは、いつも、テレビで見ていた色で、立っていた。


 俺の背丈の半分くらいまで、その光が、リビングの絨毯の上に、伸びてきていた。


 俺は、その光の上に、自分の左足の、つま先を、軽く、置いた。


 置いた瞬間、俺の喉の奥で、ふと、薄い、低い声が、鳴った。


 ――上に、来た。


 そう、聞こえた。


 聞こえた声を、俺は、初めて、誰にも詫びなかった。



  ◇



 久我山から任された、新規事業の企画書の、最初の草稿の締切は、その週末だった。


 俺は、引っ越し三日目の夜の、九時過ぎに、リビングのローテーブルの前に、ノートパソコンを、開いた。


 画面の中で、ヘルスケアデータ解析のベンチャーの、新しい収益モデルの、第一稿が、四ページ目まで、進んでいた。


 四ページ目の、いちばん下の段落で、俺の指は、ふと、止まった。


 止まったところに、明日の久我山が、どこで、どう、頷くか、ということを、俺の中の、結城の引き出しが、勝手に、計算し始めた。計算の結果が出る前に、俺の指は、その段落の三行を、ぜんぶ、書き直していた。書き直した段落は、書き直す前より、半歩、上の場所から、書かれていた。


 半歩、という言葉を、俺は、口の中で、もう一度、転がした。


 転がしたあと、自分の左手の人差し指の腹で、こめかみを、軽く、押した。


 その瞬間、テーブルの脇の、自分のスマートフォンの画面が、薄く、揺れた。


 着信音は、消していた。


 画面の上の、発信者の名前を、俺は、横目で、見た。


 『兄さん』


 二文字の漢字の上で、俺の指は、半秒ほど、止まった。


 止まったあと、ゆっくりと、応答のボタンを、押した。



  ◇



「もしもし。透真か」


 兄の声は、いつもの、まっすぐな、低めの声だった。


 商社の部長になっても、社内でも、兄の声は、こういう低さだった。低いのに、相手の肩の力を、自然に、抜く声だった。


「うん、兄さん。久しぶり」


「久しぶりに、声、聞いたな。どうだ、最近」


「うん、まあ、ぼちぼち」


 ぼちぼち、という三文字を、俺は、自分の口から出して、初めて、その三文字が、もう、自分の生活に、似合わない言葉になっていることに、気づいた。気づいたけれど、訂正は、しなかった。


 兄は、軽く、笑った。


「いや、ぼちぼちじゃないだろ。お前、すごいらしいな。会社の中じゃ、この前、新設の部署の室長代理になって。最近じゃ、なんか、別のグループの会社で、取締役だって?」


「……兄さん、なんで、知ってるの」


「父さんの、昔の部下の、知り合いの、ツテだよ。世間は狭い」


 兄の声の中の、ほんの一拍の間が、低かった。


「すごいな、お前」


「ありがとう」


「うん、すごいよ。本当に」


 兄は、もう一度、すごい、と言った。


 二度目のすごい、の語尾の終わり方が、一度目と、ほんの少しだけ、違った。違いの幅は、一ミリくらいだった。一ミリの違いを、俺の中の、安藤の引き出しが、勝手に、聞き分けた。



  ◇



「透真」


 兄は、三度目には、別の言葉を、使った。


「お前、無理、してないか」


 三文字の質問は、まっすぐ、俺の耳の奥に、届いた。


 届いた瞬間、俺の右の手のひらの中央の器の、底のいちばん深いところで、薄い、低い、別の音が、ひとつ、鳴った。


 その音を、誰よりも先に、俺自身が、聞き分けた。


 俺は、自分の喉の奥を、半秒、清めた。


「無理は、してないよ」


 答えた声は、半年前の俺の声では、なかった。半年前の俺なら、こういう質問に対して、必ず、声が、半拍、上ずった。今夜の俺の声は、上ずらなかった。上ずらない自分の声を、俺は、自分の耳で、ちゃんと、聞いた。


「そうか」


 兄の、そうか、の二文字は、どの方向にも、行かなかった。


 行かない場所に、ぽつん、と、置かれた。


 その、置かれた、そうか、を、俺は、しばらく、聞いていた。


「兄さん」


「ん」


「今度、また、ちゃんと、飯でも」


「いいよ」


 兄は、最後に、それだけ、言って、ふっ、と、笑った。


 笑い方の中に、半年前のあの居酒屋の夜の、俺の目の変化に気づいた、あの兄の、あの目元の、薄い影が、まだ、残っていた。


 通話は、それで、終わった。



  ◇



 通話の終わったスマートフォンを、俺は、ローテーブルの上に、伏せて、置いた。


 伏せた画面の真ん中で、薄い、ガラスの面が、リビングの天井の照明を、ひと粒、反射していた。


 俺は、しばらく、その反射を、見ていた。


 見ているうちに、俺の頭の中の、いちばん新しい棚に、ふと、別の名前の、薄い、線が、引かれた。


 線の名前を、俺は、口に、出さなかった。


 出さなくても、わかった。


 兄、隆一。三十五歳。大手商社の、若手で、最年少の、部長。誰からも好かれる、天性の社交性。会議の場で、三秒で、その場の空気の温度を、自分のほうに、寄せられる、薄い、温かい、笑顔の、引き寄せ方。社内の、若手の女性社員から、二十代の役員秘書まで、ぜんぶの世代に、ちゃんと、丁寧語の角度を、変えて、話しかけられる、あの、整った、引き出し。


 あの引き出しを、俺は、半年前まで、ただ、遠くから、ぼんやり、見ていた。


 遠くから、見ていることが、俺の三十二年間の、ほとんど、ぜんぶだった。


 今夜、俺の右の手のひらの中央の器の縁が、その引き出しの方角を、ふと、半歩、向いた。



  ◇



 俺は、伏せていたスマートフォンを、ゆっくり、起こした。


 画面の中の、連絡先のアプリを、開いた。


 連絡先のリストの、いちばん上に近い場所に、『兄さん』の二文字が、あった。


 二文字の右上の、編集ボタンを、押した。


 編集ボタンの中の、いちばん下の、赤い、薄い、削除のボタンを、俺の親指の腹は、ゆっくりと、近づいた。


 近づいた親指は、削除のボタンの、ほんの一ミリ手前で、止まった。


 止まった親指の腹の下で、薄い、汗が、ふと、滲んだ。


 削除を、押すことができなかった。


 押すことができなかった理由を、俺は、自分に、説明しようとした。


 説明の最初の言葉は、兄を守るため、だった。


 二番目の言葉は、まだ、奪い時じゃないから、だった。


 二つの言葉は、俺の頭の中の、別々の棚から、ほぼ同時に、出てきた。同時に出てきたから、どちらが先か、俺の中の、いちばん古い灰谷透真の声には、もう、判別が、つかなかった。


 判別がつかない、という事実を、半年前の俺なら、暗い部屋で、両手で頭を、抱えた。


 今夜の俺は、抱えなかった。


 代わりに、ゆっくりと、画面の上の親指を、削除のボタンの上から、横へ、すっ、と、外した。


 外した親指は、画面のいちばん端の、戻る、のボタンを、押した。


 押した瞬間、リストの中の、『兄さん』の二文字は、また、いちばん上の場所に、戻った。


 戻ったあとも、俺の右の手のひらの中央の器の縁は、その方角を、まだ、薄く、向いていた。


 向いていたまま、俺は、ノートパソコンの企画書の、五ページ目を、開いた。

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