点と線――朝比奈沙月の覚醒
門の表札の「久我山」の二文字を、朝比奈は、しばらく、見ていた。石に彫られた文字の角は、四十年の風雨で丸くなっていた。丸くなった角の上に、冬の午後の光が、薄く、落ちていた。
朝比奈は、自分の手帳を、コートのポケットの中で、握っていた。手帳の中には、灰谷透真に関する、朝比奈なりのメモが、三十ページ分、書かれていた。三十ページの中に、灰谷の変化の記録が、日付順に、並んでいた。
いつから灰谷は変わったのか。
その問いを、朝比奈は、半年以上、一人で、追い続けていた。追い続けた先に、昨日、久我山悟からの電話が、来た。
電話の声は、掠れていた。掠れた声の中に、かつて経済界を支配していた男の権威は、もう、残っていなかった。残っていないのに、その声の中の「頼む」の二文字だけが、朝比奈の耳の中で、まだ、反響していた。
朝比奈は、門のインターホンを、押した。
◇
リビングのソファで、久我山悟と、朝比奈沙月が、向かい合った。
二人の間に、久我山の妻が淹れた茶が、置かれていた。茶の湯気が、二人の間の空気を、薄く、揺らしていた。
朝比奈は、目の前の久我山を、見ていた。
見ている目の中で、久我山の現在の姿と、テレビや雑誌で見ていた久我山の姿が、重ならなかった。テレビの中の久我山は、声だけで千人の株主の肩を下げる男だった。目の前の久我山は、茶碗を持つ手が震えている、五十五歳の、痩せた男だった。
震えている手で、久我山は、茶碗をテーブルに置いた。置いた茶碗が、ソーサーの上で、小さな音を、立てた。
「朝比奈さん。あんた、灰谷のことを、知りたいんやろ」
「はい」
「ワシも、知りたかった。知りたかったけど、知るのが遅すぎた」
久我山の目は、朝比奈を見ていなかった。朝比奈の向こうの、壁の時計を、見ていた。時計の秒針が、一秒ずつ、進んでいた。一秒ずつ進む秒針の音が、リビングの空気を、区切っていた。
「透真は――灰谷透真は、ワシの弟子やった。ワシが見込んで、引き上げた。取締役にした。碁を教えた。うちの嫁さんに紹介した」
久我山の声は、掠れていたが、途切れなかった。途切れない声の中に、壊れかけた頭が、最後の力で、言葉を紡いでいた。
「そのあいつが、ワシから、何かを、奪った」
「何かを」
「うまく言えん。ワシの中の……いちばん大事なものを。数字の読み方を。経営の勘を。碁の打ち方を。そのぜんぶを、あいつが、持っていった」
朝比奈の手帳を持つ手に、力が入った。
「久我山会長。それは、株主総会の日に、起きたことですか」
久我山は、ゆっくりと、頷いた。
「控室で、握手をした。握手をした瞬間から、ワシの中が、空になり始めた」
握手。
手のひらの接触。
朝比奈の頭の中で、三十ページ分のメモの断片が、一斉に、繋がった。灰谷が会う人間が、会ったあとに変わる。変わり方は、全員、同じだった。何かを、失う。何かを失った人間の共通点は、灰谷と手を触れている、ということだった。
手帳のあるページに、朝比奈は、赤い線を引いていた。赤い線の横に、小さな字で、「触れることで、何かが移動している?」と書いた日付は、二ヶ月前だった。
二ヶ月前の仮説が、今、久我山の口から、確認された。
「久我山会長」
朝比奈の声は、震えていた。震えていたが、止まらなかった。
「灰谷くんは……灰谷くんに、会わせてください」
久我山は、朝比奈の目を、まっすぐ、見た。
見た目の中に、白い霧の向こうから、かつての経営者の目が、一瞬だけ、覗いた。
「あんたは、あいつの何なんや」
「……同じ会社にいた、同僚です。それ以上でも、以下でも――」
朝比奈の声が、止まった。
止まった場所で、朝比奈は、自分の中の嘘を、感じた。同僚。その二文字は、正確ではなかった。灰谷透真は、朝比奈にとって、同僚以上の何かだった。何かの名前を、朝比奈は、まだ、自分でも、つけていなかった。
「……灰谷くんの中に、まだ、あの人が残っていると、思いたいんです」
あの人。
朝比奈の言う「あの人」は、久我山の知っている灰谷透真とは、別の灰谷透真だった。久我山の灰谷は、取締役で弟子で碁の相手だった。朝比奈の灰谷は、万年平社員で何も持っていなくて鏡の前で自分の顔が誰か分からなくなる前の、元の灰谷透真だった。
久我山は、朝比奈の顔を、しばらく、見ていた。
「……あんたの目は、ええ目しとる」
その一言は、久我山が取締役を選ぶときに使った、人を見る目の、最後の欠片だった。最後の欠片で、久我山は、朝比奈沙月という女性が、灰谷の中の最後の人間の部分に、届くかもしれない、と判断した。
「灰谷の連絡先は、ワシの秘書から伝える。ただ、朝比奈さん」
「はい」
「気をつけなさい。あいつは、もう、ワシの知っとる灰谷ではない」
久我山の声は、「気をつけなさい」の五文字のところで、ほんの一瞬、昔の低い声に、戻った。戻った声の中に、かつて部下を守るために使っていた力の残滓が、薄く、光っていた。光った力は、もう部下を守るためのものではなかった。久我山が最後に守ろうとしていたのは、灰谷の中に残っているかもしれない人間の部分を、探しに行こうとしている女性の命だった。
朝比奈は、頭を、深く、下げた。
「ありがとうございます。久我山会長」
久我山は、朝比奈が頭を下げている間、朝比奈の頭の上を、白い目で、見ていた。見ている視界の端で、リビングの壁の時計の秒針が、また一秒、進んだ。進んだ一秒の中に、久我山の中から、また何かが、薄く、消えていた。
◇
久我山邸を出たあと、朝比奈は、タクシーの後部座席で、窓の外の景色を、見ていた。
冬の住宅街の坂道が、タクシーの窓の向こうを、流れていった。流れていく景色の中に、久我山邸の門の上の山茶花の枝が、まだ、見えていた。花のない枝の先が、空に向かって、伸びていた。
スマートフォンが、震えた。
画面に、名前が、表示されていた。
灰谷透真。
灰谷からのメッセージだった。メッセージの文面は、短かった。
「久我山さんのお見舞い、ありがとう。元気にしてる?」
朝比奈は、その文面を、三度、読み返した。
三度読み返したあと、朝比奈の目から、涙が、一滴だけ、落ちた。
涙が落ちた理由は、文面が優しかったからではなかった。文面が優しいのに、その優しさの奥に、久我山から奪った人心掌握術の影が、薄く、混ざっていることに、朝比奈が気づいたからだった。
気づいた上で、朝比奈は、返信を、打った。
「元気だよ。今度、会えない?」
送信ボタンを押す指が、震えていた。震えている指で、朝比奈は、灰谷透真の中に、まだ、灰谷透真がいると、信じようとしていた。
タクシーの窓に映る自分の顔に、涙の跡が、一筋、光っていた。光っている涙の向こうに、冬の東京の景色が、ぼやけて、流れていた。
流れていく景色の中に、灰谷透真の顔が、浮かんだ。浮かんだ顔は、二つあった。一つは、万年平社員だった頃の、何も持っていない、でも嘘のない目をしていた灰谷の顔。もう一つは、久我山が語った、何人もの才能を奪って変貌した灰谷の顔。
二つの顔の間の距離が、朝比奈には、果てしなく遠いものに思えた。遠いのに、朝比奈は、その距離を歩いて渡ろうとしていた。渡った先に、元の灰谷がいるかもしれなかった。いないかもしれなかった。
どちらか分からないまま、朝比奈は、スマートフォンの画面の「送信済み」の文字を、もう一度、見た。




