「俺が育てた怪物だ」
友人の名前は、島崎正一。久我山が奈良の問屋で丁稚をしていた時代の、同期の丁稚だった。同期で入って、同期で独立した。独立した先で、島崎は大阪で文房具の卸問屋を営み、久我山は東京でグループ企業を築いた。二人の人生は、出発点だけが同じで、そのあと五十年間、違う道を歩いた。
五十年ぶりに、リビングのソファで、向かい合った。
「悟。お前、なんや、痩せたな」
島崎の声は、大阪弁だった。六十八歳の、日焼けした、太い声だった。
久我山は、島崎の顔を、見ていた。
見ている目の中で、島崎の名前が、三秒間、出てこなかった。
三秒後に、「島崎」という二文字が、頭の中の引き出しの奥から、ようやく、転がり出てきた。転がり出る速度が、一ヶ月前の十倍、遅かった。
「……正一か」
「当たり前やろ。何言うとんねん」
島崎は、笑った。
笑った島崎の横で、久我山の妻が、お茶を、出した。出した茶碗の湯気が、二人の間の空気を、薄く、揺らした。
島崎が、久我山の右手を、握ろうとした。
久我山の右手は、握り返す力が、ほとんど、なかった。
島崎の笑顔が、一瞬、止まった。止まった笑顔の奥で、五十年分の友情が、目の前の友人の変わり果てた手の力を、受け止めていた。
「悟。お前、ほんまに、大丈夫か」
久我山は、答えなかった。
答えない代わりに、リビングの壁の時計の秒針の音が、異様に大きく、聞こえていた。秒針の音の合間に、自分の呼吸の音が、混ざっていた。自分の呼吸の音を、こんなにはっきり聞くようになったのは、いつからだったか。株主総会の翌日からだった。あの日から、久我山の世界は、音が大きくなった。音が大きくなったのは、耳が良くなったからではなかった。頭の中の、音を処理する部分の、フィルターが、消えたからだった。フィルターが消えた頭に、世界の全ての音が、濾過されないまま、流れ込んでくるようになった。
◇
島崎が帰ったあと、久我山は、二階の囲碁室に、上がった。
上がる階段の途中で、二度、手すりを握り直した。握り直す右手の力が、先週の半分になっていた。
囲碁室の壁の、「信」の書を、久我山は、見上げた。
見上げた文字は、今日は、読めた。読めたのに、その文字を、自分が書いた、という記憶が、まだ、戻っていなかった。
碁盤の前に、座った。
碁笥の蓋を、開けた。開けた碁笥の中の石を、五指で、摘もうとした。
摘めた。
先週よりは、摘めた。摘めたのに、摘んだ石を、盤の上に置く場所が、分からなかった。分からない、ということは、碁が打てない、ということではなかった。石を置く、ということの、意味そのものが、頭の中の引き出しの奥で、薄くなっていた。
薄くなった場所の中心に、ある男の顔が、ふと、浮かんだ。
灰谷透真。
あの顔が浮かんだ瞬間、久我山の頭の中で、二つのことが、同時に、起きた。
ひとつは、株主総会の控室の記憶だった。記憶の中で、灰谷が、俺に、握手を求めた。握手をした。握手をした右手から、何かが、抜けた。
もうひとつは、経営会議の記憶だった。灰谷が、俺の代わりに会議を回した。回し方が、俺と同じだった。声のトーンが、同じだった。間の取り方が、同じだった。
二つの記憶が、霧の中で、繋がった。
繋がった瞬間、久我山の口から、声が、漏れた。
「……あいつが」
声は、掠れていた。掠れた声の奥に、怒りは、なかった。怒りの代わりに、もっと古い感情が、あった。
悲しみ、だった。
「あいつが……あいつが、やったんか」
碁石が、久我山の指から、転がり落ちた。落ちた石が、畳の上を、ころり、と一回だけ転がって、止まった。
「俺が育てた……怪物やったんか」
怪物。
その二文字が、久我山の喉を通るとき、声帯が、軋んだ。軋んだ声帯の奥で、久我山は、赤坂の割烹の夜を、思い出していた。個室の座敷。向かいに座った灰谷透真の、まだ何も持っていない、空っぽの目。あの目を見て、久我山は、「この男は嘘をつかん顔をしとる」と思った。思ったから、「嘘だけはつくな」と言った。言った言葉を、灰谷は、まっすぐな目で、受け取った。
受け取ったはずだった。
受け取った手の、手のひらの中央に、底の見えない器が、開いていたことを、久我山は、知らなかった。知らないまま、久我山は、灰谷を育てた。育てて、可愛がって、碁を教えて、妻に紹介して、囲碁室に招いて、「ワシが死ぬまでにぜんぶ教えたる」と言った。
言った相手が、久我山の全てを、奪った。
信じた結果が、これだった。
久我山の右手が、碁盤の縁を、握った。
握った手の力は、もう、碁盤を持ち上げられる力ではなかった。持ち上げられない手が、碁盤の木の縁を、五十五年分の握力の残りかすで、握り締めていた。
◇
久我山は、しばらく、碁盤の前で、動かなかった。動かない体の中で、壊れかけた頭が、最後の力で、一つの結論を出した。あいつを、止めなければならない。止める方法は、もう、久我山の中には、残っていなかった。残っていないなら、誰かに、託すしかなかった。
久我山は、書斎に、降りた。
書斎のデスクの上に、古い電話帳が、あった。電話帳のページを、久我山は、震える指で、めくった。
めくった指が、ある名前のところで、止まった。
朝比奈沙月。
なぜ、この名前を。
久我山は、朝比奈沙月という女性に、会ったことがなかった。会ったことがないのに、この名前を、知っていた。知っている理由は、灰谷が、一度だけ、酒の席で、この名前を、口にしたからだった。
口にしたときの灰谷の声の温度を、久我山は、覚えていた。
あの温度は、灰谷が他の誰の名前を呼ぶときとも、違っていた。違う温度の中に、灰谷の中にまだ残っている、何か、人間の部分が、全部、入っていた。
久我山は、受話器を、取り上げた。
取り上げた受話器を持つ手が、震えていた。震えている手で、番号を、押した。
呼び出し音が、四回、鳴った。
「はい、朝比奈です」
若い女性の声だった。声の中に、穏やかさと、その奥にある芯の強さが、混ざっていた。
「……朝比奈さん。初めてお電話します。久我山グループの、久我山悟です」
朝比奈の声が、一拍、止まった。
「久我山……会長」
「はい。灰谷透真の、上司に当たる者です」
灰谷透真の名前を言った瞬間、電話の向こうの朝比奈の息が、ほんの一ミリ、変わった。変わり方の中に、灰谷の名前を聞くたびに、この女性の中で、何かが、揺れるのだ、ということが、伝わってきた。
「朝比奈さん。あなたに、お話しせなならんことが、あります。灰谷のことで」
書斎の窓の外は、冬の夕暮れだった。夕暮れの光が、久我山の震える手の甲を、薄く、照らしていた。
照らされた手の甲の皺の中に、四十年分の帝国の残骸が、まだ、微かに、残っていた。残っている残骸の最後の欠片で、久我山は、灰谷を止められる人間の名前を、選んだ。
選んだ名前は、朝比奈沙月だった。
受話器の向こうの朝比奈の声が、少しだけ、震えた。
「……分かりました。お伺いします」
「すまんな。頼む」
久我山の声の「頼む」の二文字は、かつて経営会議で三十七社の命運を動かした声の、百分の一の音量だった。百分の一の音量で発せられた「頼む」が、朝比奈の耳に届いた。
届いた二文字の中に、壊れかけた帝王の、最後の判断の全てが、入っていた。




