接触――復讐者と猟犬
喫茶店の名前は、入口の硝子のドアの上に、金色の箔で、書かれていた。箔の半分は、剥がれていた。剥がれた箔の下から、木の地肌が、覗いていた。
奥のブースの席に、織部千景が、先に、座っていた。
テーブルの上に、紙の束が、伏せて、置かれている。束の厚さは、一センチほどだった。一センチの紙の中に、灰谷透真のこの一年の行動記録が、詰まっていた。
サイフォンの泡立つ音が、奥のカウンターから、聞こえている。
入口のドアが、開いた。
入ってきたのは、四十代の男だった。痩せた体。目だけが、鋭かった。スーツは、量販店の、紺色の、何の特徴もないスーツだった。何の特徴もないスーツの中に、鋭い目だけが、不自然に、光っていた。
真壁蓮司。
警視庁生活安全部の、特殊対策室の、室長補佐。肩書きは地味だった。地味な肩書きの奥で、Loss症候群を、半年間、ひとりで、追い続けてきた男だった。
真壁は、織部の向かいの席に、座った。座る動作が、警察官の動作だった。店内を一度だけ見回してから座る。背中を壁に預けない。椅子の脚を引かない。全部が、訓練の癖だった。
「織部千景さん、ですね」
「ええ」
「真壁です」
二人の間に、サイフォンコーヒーが、二つ、置かれた。置いたウェイターが去ったあと、木製のテーブルの傷が、二人の間の沈黙の上に、残った。
傷の形は、長い年月の爪痕に、似ていた。
「……単刀直入に」
真壁は、コーヒーに口をつけなかった。
「あなたの仲間が集めた、灰谷透真に関する情報を、見せていただきたい」
織部は、右手でテーブルの上の紙束を、真壁のほうへ、ゆっくりと、滑らせた。滑らせる指の先が、紙の表面を、弦を撫でるように、触れていた。
「こちらも単刀直入に聞くわ。真壁さん、あなたは警察として来てるの? それとも、個人として?」
真壁の目が、一瞬、止まった。
止まった目の奥で、真壁蓮司という男の中の、二つの声が、ぶつかった。一つは、法の番人としての声だった。もう一つは、Loss症候群の被害者リストを半年間読み続けた男の、もっと暗い場所から出る声だった。
「……どちらでもあります」
真壁は、紙束の表紙を、開いた。
開いた一枚目に、灰谷透真の顔写真と、その下に、年表が、書かれていた。年表の左の列に日付。右の列に、Loss症候群の発症者名。二つの列の間に、灰谷との接触記録が、赤い線で、結ばれていた。
赤い線は、十四本あった。
十四本の赤い線が、全部、灰谷透真という一つの名前に、集束していた。集束した赤い線の中心に、灰谷の顔写真が、白黒で、写っていた。白黒の写真の中の灰谷は、何の特徴もない三十二歳の男に、見えた。
◇
氷室奏が、タブレットの画面越しに、オンラインで、参加していた。
画面の中の氷室の顔は、青白かった。青白い顔の上に、眼鏡のレンズが、タブレットの光を反射していた。
「Loss症候群の発症者は、現在、確認できているだけで十四人。全員が、発症前三ヶ月以内に、灰谷透真と物理的な接触をしています」
氷室の声は、研究者の声だった。感情を排した、データの声だった。データの声で語られる内容が、データでは語りきれない重さを、持っていた。
「物理的な接触、というのは」
真壁が、メモ帳にペンを走らせながら、聞いた。
「握手。肩を叩く。腕を掴む。全て、手のひら、もしくは手指の、直接接触です」
氷室のペンが、タブレット越しに、グラフを指した。グラフの横軸に、接触後の経過日数。縦軸に、被害者の能力低下率。十四人分の曲線が、ほぼ同じ形で、急降下していた。
「接触後七十二時間以内に、対象の専門能力が、六十パーセント以上、低下しています。低下した能力は、一例も、回復していません」
真壁のペンが、止まった。
「一例も」
「一例も」
氷室は、繰り返した。繰り返した声の底に、かつて自分の思考速度が半分になった日の記憶が、薄く、震えていた。
織部が、テーブルの上の紙束の三枚目を、開いた。三枚目には、被害者の職業と失った能力の一覧が、書かれていた。
料理人。水墨画家。チェスのグランドマスター。フリーダイバー。ヴァイオリニスト。脳科学者。法学者。政治家秘書。
そして、経営者。
久我山悟。
その名前の横に、発症日として、株主総会の日付が、書かれていた。
真壁は、紙束を、最後のページまで、めくった。めくる指が、ページの途中で、一度、止まった。止まったページには、瀬川陽人の名前があった。職業欄に「漁師」。失った能力欄に「潜水技術・水中感覚」。接触状況欄に「手を握られた」。
真壁の脳裏に、半年前、最初にこの事件に気づいた日のことが、蘇った。交番に来た若い女性ピアニストが、泣きながら、「ある日突然、弾けなくなった」と言った日のことだった。あの日から、真壁は、Loss症候群という、どの法律にも該当しない犯罪を、追い始めた。
法律に該当しない。
それが、真壁を最も苦しめている壁だった。灰谷透真が才能を奪っている。データは、それを示していた。しかし、才能の窃盗という罪は、日本の刑法に、存在しなかった。窃盗罪は有体物にしか適用されない。傷害罪は身体の損傷を要件とする。脳の機能低下は、外傷がない限り、傷害に該当するか、争いがあった。
真壁は、紙束を、テーブルの上に、静かに、戻した。
戻した紙束の上に、自分の両手を、置いた。置いた手のひらの中に、法では裁けない犯罪の重さが、十四人分、乗っていた。
◇
喫茶店の外に出たとき、新宿の夜のネオンが、二人の顔を、色とりどりに、照らした。
行き交う人々の靴音が、冬の乾いた歩道に、反射していた。
真壁は、喫茶店のドアが閉まったあと、織部に、一つだけ、聞いた。
「織部さん。あなたたちは、灰谷透真を追い詰めて、そのあと、どうするつもりですか」
織部は、マフラーを巻き直しながら、真壁の目を、まっすぐ、見た。
「奪われたものを返してもらう」
「返してもらう方法が、あるんですか」
「ないわ」
織部の声は、静かだった。
「ないけど、あの男を自由にしておくわけにはいかない。私たちから奪ったものは返らなくても、これ以上の被害者を出すわけにはいかない」
真壁は、冬の冷気の中で、自分の吐く息の白さを、一度だけ、見た。
「……もう一つだけ。あなたたちの中に、灰谷透真に対する殺意は、ありますか」
織部の右手の指が、マフラーの端で、弦を弾く形に、動いた。動いたあと、止まった。
「殺意はない。瀬川にも、安藤にも、確認したわ。私たちが欲しいのは、復讐じゃない」
止まった指の先で、冬の冷気が、肌を、刺した。刺した冷たさの中に、かつてヴァイオリンの弦を押さえていた指の腹の、硬い角質の記憶が、まだ、残っていた。
「自分の人生を、返してほしいだけよ」
新宿の雑踏が、二人の間を、流れていった。流れていく人々の中に、才能を持った人間と、才能を失った人間が、誰にも区別されないまま、混ざっていた。
真壁は、頭を一度だけ下げて、雑踏の中に、消えた。
消えていく背中を、織部は、しばらく、見ていた。見ている右手の指が、また、弦を弾く形に、動いた。弾けない弦の振動を、指の腹だけが、まだ、覚えていた。




