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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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帝国掌握――灰谷透真の王座

 革張りの椅子の座面が、俺の体重を受けて、低く、軋んだ。軋みの音は、久我山が四十年間座り続けて馴染ませた革の音と、同じ音だった。同じ音なのに、椅子が受け入れている体が、違った。


 違う体で座っているのに、椅子は、拒まなかった。


 拒まない椅子の上から、俺は、東京の景色を、見た。十六階の執務室の窓から見える景色は、久我山がこの部屋に入った日から、何も変わっていないはずだった。ビルの並び方。首都高の曲線。空の色。全部、同じだった。


 同じはずなのに、俺の目は、その景色を、久我山の目で、見ていた。


 久我山の目で見る東京は、三十七社の事業構造そのものだった。ビルの一本一本が子会社で、首都高の曲線が物流網で、空の色が来期の景気動向だった。その変換を、俺は、自分では選んでいなかった。久我山から奪った大局観が、俺の視界を、勝手に、書き換えていた。


 机の上に、久我山の万年筆が、一本、残されていた。


 ペリカンのスーベレーン。軸の緑と黒の縞模様が、窓からの冬の午後の光を、薄く、吸っていた。吸った光の中に、久我山のインクの匂いが、四十年分、染み込んでいた。


 俺は、その万年筆に、触れなかった。


 触れない右手を、俺は、机の上に、開いた。手のひらの中央の器の底に、久我山の四十年が、まだ、新しい温度で、沈んでいた。沈んでいるものの上に、久我山の経営判断力と大局観が、最上層に、浮いていた。浮いているものを、俺の体は、もう、自分の手足のように使っていた。


 触れなかったのは、恩義ではなかった。触れる必要が、もう、なかったからだった。久我山の筆跡も、署名の癖も、全部、俺の右手の筋肉の記憶の中に、入っていた。



  ◇



 赤坂の料亭の個室で、三条院麗華が、俺の向かいに、座っていた。


 三条院の顔は、一ヶ月前と、変わっていなかった。変わっていないのに、俺に向ける目の角度が、変わっていた。一ヶ月前の三条院の目は、俺を道具として値踏みする目だった。今日の三条院の目は、俺を値踏みすることを、やめた目だった。やめた、というよりも、値踏みの結果が、出てしまった目だった。


「灰谷さん。久我山会長の体調が、芳しくないとのこと」


「ええ。過労です。しばらく静養されます」


 俺の声は、久我山の低いトーンを、もう完全に再現していた。再現しているのに、三条院の耳だけは、その声の中の、久我山と違う何かを、聞き取っていた。聞き取りながら、それを指摘しなかった。


 障子の向こうから、出汁の香りが、薄く、流れてきた。


「久我山会長の代わりは、あなたが務められるのでしょう」


「務めさせていただきます」


 三条院の右手が、盃を持つ力を、ほんの一段、変えた。変えた力の方向は、握り締める方向ではなかった。力を抜く方向だった。力を抜く、ということは、抵抗をやめた、ということだった。


 三条院麗華は、政治家だった。政治家は、力の配置が変わったとき、もっとも速く、新しい配置に適応する生き物だった。


「……灰谷さん。ひとつだけ、お聞きしていいかしら」


「どうぞ」


「あなたは、久我山会長と、同じものを見ていらっしゃるの?」


 同じもの。


 その問いの奥に、三条院の、かつて奪われた交渉力の残滓が、薄く、光った。光は、もう力ではなかった。力を失った人間が、力を持った人間の正体を、直感で嗅ぎ取ろうとする、生存本能の光だった。


「同じものを見ています。久我山さんが見ていたものの全てを」


 俺の答えは、嘘ではなかった。


 嘘ではないのに、それは、真実でもなかった。久我山が見ていたものは、三十七社の事業構造だけではなかった。久我山が見ていたものの中には、妻の手料理の匂いと、「信」の一文字と、碁盤の前で弟子を待つ朝の時間が、全部、入っていた。


 俺が見ているものの中に、それらは、もう、入っていなかった。



  ◇



 夜。


 港区のマンションの一室に、四人が、集まっていた。


 織部千景のマンションだった。リビングの壁に、ホワイトボードが、立てかけられていた。ホワイトボードの上に、灰谷透真の行動パターンが、時系列で、書かれていた。


 織部は、ソファの端に、座っていた。右手の指が、無意識に、弦を弾く動きを、していた。弾く弦は、もう、どこにもなかった。弦を弾く指だけが、奪われた才能の記憶を、まだ、再生していた。


 氷室奏が、ノートパソコンの画面を、テーブルの中央に、向けた。


「データは揃いました。Loss症候群の発症者リスト。灰谷透真との接触記録。全部、時系列で重なります」


 瀬川陽人は、窓際に、立っていた。立っている瀬川の左手の指が、時折、何かを摘むように、動いた。魚を掴む動きだった。もう掴めない魚を、指だけが、覚えていた。


「データだけでは足りん」


 瀬川の声は、乾いていた。


「証拠が要る。あいつが人の才能を奪っている、という、物理的な証拠が」


 織部が、冷めたコーヒーのカップを、テーブルに置いた。置いた音は、小さかった。小さいのに、四人の間の空気を、一段、締めた。


「証拠は、真壁蓮司が持ってくる」


 真壁蓮司。


 その名前を、この部屋の四人のうち、三人は、知らなかった。知っていたのは、織部だけだった。


「警視庁の人間よ。Loss症候群を独自に追ってる。来週、会う」


 瀬川の目が、織部を、射た。


「警察を巻き込むのか」


「巻き込むんじゃない。向こうから来るの。真壁は、自分の正義で動いてる。私たちの復讐とは、たぶん、違うけど」


 たぶん、違う。


 その三文字の間に、織部の声は、ほんの一拍、止まった。止まった一拍の中に、才能を失った者だけが持つ、怒りの、いちばん冷たい形が、詰まっていた。


 ホワイトボードの灰谷透真の名前の上を、蛍光灯の白い光が、照らしていた。


 照らされた名前の文字の角が、四人の目に、それぞれ、違う温度で、映っていた。


 瀬川には、灰谷の名前は、銀色の魚を奪った泥棒の名前だった。氷室には、科学者の知性を盗んだ犯罪者の名前だった。織部には、弦の振動を永久に消した強盗の名前だった。


 四人目の男――安藤圭吾は、ソファの隅で、自分の右拳を、開いたり閉じたりしていた。開閉のリズムは、かつて六十五キロの握力を持っていた男のリズムではなかった。今の安藤の握力は、四十二キロだった。四十二キロの拳が、空気を握っていた。


「灰谷を追い詰めて、どうする」


 安藤の声は、太かった。太いのに、声の底に、以前はなかった空洞が、響いていた。


「奪われたものが、返ってくるのか」


 四人の間を、沈黙が、三秒、流れた。


 三秒の沈黙の中で、四人とも、同じことを、考えていた。返ってくるか分からない。分からないのに、ここに集まっている。集まっている理由は、返ってくるかもしれないからではなかった。奪われたまま黙っていることが、自分の中の残りの何かまで殺すことだったからだった。


 織部が、ホワイトボードの灰谷の名前の横に、赤いマーカーで、「真壁蓮司 警視庁」と、書き足した。


 書き足した文字のインクの匂いが、リビングの空気を、薄く、変えた。


 変わった空気の中で、瀬川の左手の指が、また、銀色の魚を掴む形に、動いた。掴めない指の形が、冬の夜の窓ガラスに、薄く、映っていた。

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