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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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空になった器――久我山悟の崩壊

 落ちた碁石は、黒だった。黒い石が、畳の目の上を、ころり、と一回だけ、転がって、止まった。止まった石の表面が、北向きの窓の冬の光を、薄く、反射した。


 久我山は、自分の右手を、見ていた。


 見ている目は、一週間前の囲碁の夜の目ではなかった。一週間前の目の奥には、五十五年分の勝負の記憶が、全部、光っていた。今朝の目の奥には、光が、消えていた。消えた場所に、薄い、白い霧だけが、入っていた。


「……おかしいな」


 久我山の声は、掠れていた。


「石が、持てん」


 久我山は、もう一度、碁笥の中の石を、五指で、摘もうとした。摘もうとした五指の、親指と人差し指のあいだの力が、合わなかった。合わないから、石が、指の間から、滑った。滑った石が、碁盤の上に、ぱちん、と落ちた。落ちた場所は、天元ではなかった。盤面のどこでもない場所だった。


 壁の「信」の書が、久我山の視界に、入った。


 入った、はずだった。


 久我山の目は、その書の文字を、認識しなかった。認識しない、というのは、読めない、ということではなかった。見えていた。見えているのに、その文字の意味が、頭の中の引き出しの中で、どこに仕舞われていたか、分からなくなっていた。



  ◇



 株主総会から、四日が経っていた。


 四日の間に、久我山悟の中から、消えたものは、数字の読み方だった。


 数字の読み方、というのは、小学生が習う足し算引き算の話では、なかった。久我山が四十年かけて磨き上げた、数字の、匂いの嗅ぎ方、だった。


 たとえば、月次の売上報告書を開く。数字が並んでいる。並んでいる数字の中に、ひとつだけ、色の違う数字がある。色が違うということは、前月と何かが変わったということだ。変わった理由を、久我山は、その数字を見た瞬間に、三つの仮説に分解できた。分解した三つの仮説のうち、正しい仮説はどれかを、久我山は、報告書の他の数字との関係から、〇・五秒で、判定できた。


 その〇・五秒が、消えた。


 消えた場所に、何秒かかっても判定できない、白い、空白だけが、残った。


 久我山は、株主総会の翌日の朝、自分の書斎で、久我山グループの月次報告書を、開いた。開いた報告書の数字を、久我山は、三十分間、見ていた。三十分見ても、数字の色の違いが、見えなかった。見えないということが、久我山には、理解できなかった。



  ◇



 久我山グループの本社では、灰谷透真が、代表代行として、久我山の席に、座っていた。


 座った椅子の革の感触を、俺の体は、もう、自分のものとして、受け入れていた。受け入れ方の速さを、俺自身が、薄く、驚いた。


 経営会議は、俺が、ぜんぶ、回した。


 回し方は、久我山そのものだった。久我山の低い声のトーン。久我山の間の取り方。久我山の、ぽつり、と落とす結論の置き方。そのすべてが、俺の中の新しい引き出しから、勝手に、出てきた。


 古参の役員の一人が、会議のあと、廊下で、俺に、声をかけた。


「灰谷さん。今日の会議、まるで、会長がいらっしゃるようでした」


 俺は、薄く、笑った。


「会長から、よく教えていただいてますので」


 笑いの角度は、久我山がよくやる、口の左端だけを上げる笑い方だった。左端だけを上げる笑い方を、俺は、自分で選んでいなかった。久我山の引き出しが、勝手に、俺の顔の筋肉を、動かしていた。


 古参の役員の目が、一瞬、揺れた。


 揺れた目の中に、古参だけが知っている、久我山の四十年分の背中の形が、映っていた。映っていた形と、今、目の前にいる灰谷透真の背中の形が、重なりかけていた。重なりかける、ということの意味を、古参は、言語化できなかった。言語化できないまま、何も言わずに、廊下を、歩いていった。



  ◇



 夜。タワーマンションの浴室の鏡の前で、俺は、自分の顔を、見た。


 顔は、灰谷透真の顔だった。灰谷透真の顔なのに、口元の力の入り方が、久我山に、似ていた。似ているのは、口元だけではなかった。眉の上げ方。目を細めるときの皺の入り方。首を傾げる角度。全部が、俺の動きではなく、久我山の動きを、再生していた。


 再生している、ということに、俺は、恐怖を感じなかった。


 恐怖を感じない、ということにも、何も感じなかった。


 何も感じない場所で、ふと、別のことに、気づいた。


 恩義、という感情が、消えていた。


 久我山への恩義。久我山が、俺を取締役に引き上げてくれたこと。赤坂の割烹で「嘘だけはつくな」と言ってくれたこと。囲碁を教えてくれたこと。妻に俺を紹介してくれたこと。それらの記憶は、まだ、残っていた。記憶はあった。


 感情が、なかった。


 記憶の中の久我山の顔を思い出しても、胸の底の、名前のない場所が、軋まなかった。軋まない、ということは、そこに、もう、何も、残っていない、ということだった。



  ◇



 久我山邸には、主治医が、毎日、往診に来ていた。


 内科の中村医師は、久我山を三十年診ている医師だった。中村は、聴診器を当て、血圧を測り、瞳孔に光を当て、膝蓋腱反射を確かめ、全ての検査結果を、カルテに、書いた。


 全ての検査結果は、正常だった。


 正常なのに、久我山は、自分のグループの三十七社の名前を、半分しか、言えなくなっていた。


 中村医師は、カルテのペンを、止めた。


 止めたペンの先が、紙の上で、薄い点を、残した。


「久我山さん。脳のMRIを、もう一度、撮りましょう」


「ああ」


 久我山の返事は、短かった。短さの中に、自分の体に起きていることを、自分で、説明できない男の、低い恐怖が、入っていた。


 恐怖の声は、かつて久我山が経営会議で振るっていた、空気を締める声の、十分の一の音量もなかった。


「先生」


 久我山は、中村の手首を、軽く、握った。


 握った手の力は、一週間前の半分だった。


「ワシの中から……何かが、抜けた。それだけは、分かるんや」


 中村は、久我山の手を、しばらく、握り返した。


 握り返しながら、二つの冬の白い光が、窓から、久我山の禿頭を、照らしていた。


 照らされた禿頭の上を、久我山の四十年分の帝国の影が、もう、薄く、離れ始めていた。


 離れていく影の行き先を、久我山は、知らなかった。知らないまま、北向きの窓の冬の光だけが、六畳の和室を、白く、満たしていた。


 壁の「信」の書が、久我山の視界の端に、まだ、あった。


 あったのに、久我山の目は、もう、その一文字を、自分が書いた文字として、思い出すことが、できなかった。三十代の自分の手が、太い筆を握って、半紙の上に、一気に、引いた、あの腕の感触が、肘の関節の奥から、消えていた。


 消えた場所に、白い霧だけが、また一層、厚く、入っていた。


 中村医師は、久我山邸の門を出たあと、自分の車のドアを開ける前に、一度だけ、振り返った。


 振り返った視線の先に、二階の北向きの窓の障子が、薄く、光っていた。


 光の向こうに、久我山悟が、まだ、碁盤の前に、座っているはずだった。碁石を摘めない右手を膝の上に置いて、誰もいない対局の向こう側を、白い目で、見つめているはずだった。


 中村は、車のドアを、閉めた。


 閉めた車の中で、しばらく、ハンドルを、握ったまま、動かなかった。

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