経営の神が死んだ日
マイクの前に立った久我山の声は、いつもの低い、関西の混じった声だった。声の第一声が、大ホールの二千席の空気を、ぴたり、と締めた。締め方の精度を、俺の中の安藤の引き出しが、振動の波形として、勝手に、計測した。
完璧だった。
久我山悟という男の経営者としての才能は、声の第一声に、全部、凝縮されていた。声が空気を締める。空気が締まった瞬間に、二千人の株主の肩が、同時に、ほんの一ミリ、下がる。下がった肩の上に、久我山の言葉が、ひとつずつ、置かれていく。置かれた言葉は、数字と、ビジョンと、謝罪と、覚悟の四つの層で、できていた。四つの層を、久我山は、十五分で、壇上で、ぜんぶ、積み上げた。
俺は、長いテーブルの端の自分の席から、久我山の背中を、見ていた。
背中の真ん中の、肩甲骨の間に、四十年分の、何かが、詰まっていた。その何かの形を、俺は、取締役に就任した最初の月に、会長室の応接で、初めて嗅ぎ取った。嗅ぎ取ったあの日から、もう、何ヶ月が経ったか。
何ヶ月経っても、あの背中の中身は、俺の手の中に、入っていなかった。
今日、入る。
◇
総会は、二時間半で、終わった。
質疑応答で、俺は、三つの質問に、補佐として、答えた。答えるたびに、久我山は、隣で、小さく頷いた。頷くたびに、俺の中の、何か、名前のない場所が、軋んだ。
閉会の挨拶を、久我山が、壇上で、行った。
「本日は、長時間、ありがとうございました」
久我山の声は、二時間半を経ても、まったく、掠れていなかった。掠れないという事実が、この男の、五十五年分の体力の証だった。
閉会後。
壇上から降りた久我山は、控室の廊下で、軽く、肩を回した。
「疲れたわ」
「お疲れさまでした」
「透真。お前のフォロー、助かったわ。あの三つ目の質問のとこ、お前が出てくれんかったら、ワシ、ちょっと、詰まっとったかもしれん」
久我山は、控室のドアを、開けた。
控室は、小さな部屋だった。白いテーブルと、椅子が四つ。ペットボトルの水と、おしぼりが、テーブルの上に、置かれていた。
久我山は、椅子に、深く、座った。
座ったあと、おしぼりで、自分の額を、軽く、拭いた。
俺は、ドアを、閉めた。
閉めた。
ドアの金属の音が、小さな控室の壁に、反射した。
◇
「久我山さん」
「ん」
「今日の総会、成功でした。本当に」
「ああ、まあな。株主も、おとなしかったし」
久我山は、おしぼりをテーブルに置いて、ペットボトルの蓋を、開けた。
開ける指の動きを、俺の中の安藤の引き出しが、自動的に、計測した。握力の数値。指の開き方の角度。蓋を回す手首の速度。全部の数値の中に、五十五歳の男の、衰え始めた身体と、衰えていない精神の、不均衡が、見えた。
「久我山さん」
「なんや」
俺は、自分の椅子から、立ち上がった。
立ち上がる動作の中で、俺の右の手のひらの中央の、底の見えない器の縁が、ふっ、と一段、開いた。開いた器の口から、三ヶ月分の飢えが、ゆっくりと、立ち上がった。
「握手を、させてください」
久我山は、ペットボトルを持ったまま、俺を、見上げた。
見上げた目の奥に、いつもの低い火が、灯っていた。火は、温かかった。温かい火の前に、俺は、自分の右手を、差し出した。
「今日の総会の成功を。最後に」
久我山は、ふっ、と笑った。
「大げさやな」
笑いながら、久我山は、自分の右手を、差し出した。
二つの手のひらが、白いテーブルの上の、おしぼりとペットボトルの脇で、合わさった。
◇
久我山の手のひらは、厚かった。
安藤の手よりも、瀬川の手よりも、宮園の手よりも、厚かった。厚さの中に、四十年分の、判断の重さが、詰まっていた。
俺の器の口が、その厚みの中央に、ぴたり、と当たった。
当たった瞬間、久我山の手のひらの中から、四十年分の、奈良の問屋の塩の記憶が、最初に、流れ込んできた。
塩は、しょっぱかった。
しょっぱいのに、甘かった。
甘さの形は、丁稚の少年が、毎朝、塩を握って、土間を走った、その右の手のひらの形だった。形の中に、大将の太い声と、奈良の夏の蝉の声と、十五歳の久我山の、何も持っていない、空っぽの手の感触が、全部、入っていた。
四秒。
久我山の経営判断力が、俺の頭の中の書庫の、いちばん上の棚に、どっ、と流れ込んできた。書庫の他の棚にあった、宮園の思考力も、結城の分析力も、三条院の交渉力も、ぜんぶ、一瞬、吹き飛ばされた。久我山の経営判断力は、他のすべての才能の上位レイヤーだった。上位レイヤーが、俺の中の全体の配線を、一瞬で、書き換えた。
八秒。
久我山の人心掌握術が、俺の喉の奥の声帯に、染みた。声帯が、久我山のあの低い、関西の混じった声の振動を、勝手に、模倣し始めた。
十二秒。
久我山の大局観が、俺の視界を、書き換えた。視界の中の、控室の白いテーブルも、ペットボトルも、おしぼりも、ぜんぶ、久我山グループの三十七社の事業構造と、同じ色で、見え始めた。白いテーブルの上の、水滴のひとつが、ある子会社の来期の売上と、同じ粒の大きさで、光った。
十五秒。
「……透真」
久我山の声が、掠れた。
掠れた声の中に、ふだんの低い火が、半分、消えていた。
「なんか、急に、頭が」
久我山の右手が、俺の手の中で、ほんの一拍、力を失った。
俺は、その手を、離さなかった。
十六秒。
俺の体の中で、久我山の記憶が、奔流のように、溢れ始めた。
記憶の中に、久我山の妻の手料理の匂いがあった。娘の結婚式の、祝辞を読む久我山の声の震えがあった。専務に裏切られた夜、書斎の隅で、壁に額を押し当てた久我山の、太い肩の揺れがあった。それらの記憶は、経営判断力や大局観とは、別の棚にあるものだった。それらは、久我山という人間の、人生そのものだった。
人生が、流れ込んでくる。
流れ込んでくる人生の温度が、これまでの誰の才能よりも、熱かった。
十八秒。
久我山の目の奥の火が、もう一段、薄くなった。
薄くなった火の奥に、久我山の妻の顔が、ちらり、と映った。映った妻の顔を、俺の器の縁が、舐めかけた。
舐めかけた瞬間、俺は、手を、離した。
離した。
俺の手のひらの中央の器の底に、久我山の四十年が、ぜんぶ、沈んだ。
沈んだ四十年の上に、恩義という名前の蓋が、あったはずだった。
蓋は、もう、なかった。
◇
久我山は、椅子の上で、しばらく、自分の右手を、見ていた。
見ている目が、さっきまでの久我山の目では、なかった。鋭さが、消えていた。鋭さの代わりに、薄い、白い、霧のようなものが、瞳の中央に、入っていた。
「透真」
久我山は、掠れた声で、言った。
「……ワシ、いま、何を」
「久我山さん。お疲れなんですよ。今日は、もう、お帰りください」
俺の声は、自分でも驚くほど、滑らかだった。滑らかさの中に、久我山の低い声のトーンが、すでに、薄く、混ざっていた。
久我山は、椅子から、ゆっくり、立ち上がった。
立ち上がる動作に、二十秒かかった。
二十秒かける久我山を、俺は、控室の入口の扉の前で、待っていた。
待っている俺の右の手のひらの中央の器の中で、四十年分の帝国が、新しい主人の体温で、温められ始めていた。




