株主総会の朝――捕食者の食前
鏡の中の顔は、灰谷透真の顔だった。
灰谷透真の顔、のはずだった。
痩せ型。地味。三十二歳。中堅メーカーの万年平社員だった男の顔。その顔は、まだ、そこに、あった。輪郭も、目の大きさも、唇の薄さも、三十二年間と変わっていないはずだった。
変わっていないのに、鏡の中の男の目が、俺の知らない目をしていた。
目の奥に、何人もの光が、層になって、光っていた。宮園の思考力の冷たい光。安藤の運動能力の獣の光。瀬川の水の記憶の、青い、揺れる光。織部の審美眼の、薄い、金色の光。三条院の票読みの、乾いた、黒い光。桐生の行政手腕の、白い、書類の光。
それらの光が、俺の瞳の中で、順番に、瞬いていた。瞬いている光の隙間から、灰谷透真の、元の光を、探した。
見つからなかった。
見つからないことを、恐ろしいとは、思わなかった。恐ろしいと思わないことが恐ろしかった、という段階も、もう、二ヶ月前に、通り過ぎていた。
俺は、水滴を、タオルで、拭った。
拭ったあと、もう一度、鏡の中の自分の顔を、見た。
今日、この顔で、久我山悟の四十年を、奪う。
◇
黒田恭介は、その朝、神保町の三畳の事務所で、三台のモニターの前に、座っていた。
モニターの一つに、久我山グループの株主総会のライブ配信のURLが、表示されていた。総会は午前十時開始。あと、四十分。
黒田の右手の脇に、厚さ二センチの封筒が、置かれていた。封筒の表に、何も、書かれていなかった。中身は、三週間かけて書いた、八千字の原稿だった。
原稿のタイトルは、こうだった。
『才能捕食者の正体――灰谷透真と久我山グループの闇』
灰谷透真。
初めて、実名を出す記事だった。
黒田は、原稿を書き終えたあと、三日間、公開のボタンを、押せずにいた。押した瞬間に、自分と家族の人生が、変わる。変わり方は、たぶん、良い方向ではない。
黒田は、机の引き出しの奥から、一枚の写真を、取り出した。七歳の娘が、桜の下で、笑っている写真だった。去年の春に、近所の公園で、妻が撮った写真だった。
写真の娘の笑顔を、黒田は、しばらく、見ていた。
見たあと、写真を、引き出しに、戻した。
戻したあと、黒田は、原稿の封筒の角を、指で、一度だけ、軽く、叩いた。
この記事は、株主総会の翌日に、出す。総会で何が起きるかを、まず、見届けてから。
黒田は、コーヒーカップに残った冷めた液体を、一口、飲んだ。飲んだ液体は、苦かった。苦さの中に、三週間の睡眠不足と、娘の笑顔と、ジャーナリストの矜持が、全部、溶けていた。
モニターの時計が、九時十五分を、指した。
黒田は、三つのモニターの電源を、一つずつ、落とした。残した一つに、株主総会のライブ配信の画面だけが、青白く、光っていた。
そう、決めた。
◇
株主総会の会場は、都内のコンベンションホールの大ホールだった。
二千席の客席に、株主と報道関係者が、八割ほど、埋まっていた。舞台の正面の長いテーブルに、取締役十二人の名札が、一列に、並んでいた。
名札の中央に、『代表取締役会長 久我山悟』。
名札の右端に、『取締役 代表代行 灰谷透真』。
俺は、名札の前に、座った。
座った椅子の革が、冷たかった。冷たさの中に、久我山が何十回と座ってきた椅子の記憶が、薄く、染みていた。
客席のほうを、俺は、見た。前から五列目あたりに、報道関係者の席がまとめて確保されていた。その中の一席に、スーツ姿の男が、手帳を膝の上に開いて、座っていた。四十代。痩せた体型。目だけが、鋭かった。
あの男の顔を、俺は、知らないはずだった。
知らないのに、俺の中の宮園の分析力が、あの男の座り方から、ジャーナリストの匂いを、嗅ぎ取った。匂いの質は、テレビ局の記者ではなかった。フリーランスの、もっと深い場所を掘る人間の匂いだった。
黒田恭介。
名前が、俺の頭の中の書庫の端から、浮かび上がった。あの匿名ブログの男。第三弾記事で、俺の名前の輪郭を、世間に、晒しかけた男。
あの男が、なぜ、株主総会に。
俺の右の手のひらの中央の器の縁が、ふっ、と一段、締まった。締まり方は、飢えではなく、警戒だった。
しかし、今日の計画を、変える理由には、ならなかった。
◇
開場の五分前。控室の廊下で、久我山が、俺のほうへ、歩いてきた。
歩いてくる久我山の肩は、先週の囲碁の日より、ほんの一段、低くなっていた。低くなった肩の上に、グレーのスリーピースが、いつもより、少しだけ、余って、見えた。
「透真」
「はい」
「今日はな、ワシが全部、喋る。お前は、質疑のときだけ、補佐してくれたらええ」
「承知しました」
俺の声は、まっすぐだった。まっすぐな声の奥に、何も、震えていなかった。震えていない、ということが、半年前の俺には、ありえなかった。半年前の俺なら、久我山の前で、声が、必ず、半音、上ずった。今日の俺の声は、上ずらなかった。上ずらないことを、俺は、もう、不思議とは、思わなかった。
久我山は、俺の目を、まっすぐ、見た。
見た目の奥に、先週の囲碁の夜と同じ、温かい火が、灯っていた。
「お前がおるから、安心や」
安心。
その四文字が、俺の胸の底の、名前のない場所に、落ちた。
落ちた場所で、恩義が、もう一度だけ、声を上げた。
声は、三ヶ月前の半分の音量だった。
◇
開演の五分前。
控室の洗面台で、俺は、自分の両手を、洗った。
洗いながら、自分の右の手のひらの中央を、見た。器の縁は、干上がりを通り越して、薄く、白くなっていた。白さの形は、久我山が話した丁稚時代の、塩の跡の白さと、同じ形をしていた。
俺は、蛇口を、止めた。
止めたあと、タオルで手を拭きながら、自分の右の手のひらの中央に、もう一度、声をかけた。
声の内容は、三つだった。
ひとつめは、計画の確認だった。総会終了後の控室で、久我山と二人になる。その瞬間に、握手を求める。
ふたつめは、所要時間の予測だった。久我山の才能の密度を、俺の中の安藤の引き出しと宮園の分析力で推算すると、十五秒から二十秒の接触が必要だった。
みっつめは、こう、だった。
――久我山さん。あなたが、いちばん嫌いなもの。嘘。今日、俺は、あなたに、人生でいちばん大きな嘘を、つく。
その声は、俺の中の、いちばん古い灰谷透真の声だった。
いちばん古い声が、いちばん小さかった。
小さいのに、聞こえた。
聞こえたまま、俺は、洗面台の鏡の中の自分に、最後に、一度だけ、訊いた。
――お前は、誰だ。
鏡の中の男は、答えなかった。
答えない男の目の奥の、何人もの光の隙間に、たった一つだけ、灯の消えた暗い場所が、あった。暗い場所の名前は、灰谷透真だった。
灰谷透真という名前の暗がりが、鏡の中から、俺を、見ていた。
見ている暗がりの中で、三十二年間の、何もなかった人生が、ぜんぶ、折り畳まれていた。折り畳まれたまま、誰にも開かれないまま、薄く、埃を被っていた。
俺は、鏡に背を向けた。
背を向けたまま、控室の扉を、開けた。
扉の向こうの大ホールの舞台の照明が、俺の顔を、白く、照らした。
照らされた顔は、もう、灰谷透真の顔では、なかった。
久我山悟を奪う男の顔、だった。




