最後の囲碁――師弟の別れ
門の表札に、「久我山」の二文字が、石に彫られていた。石の角が、四十年の風雨で、ほんの少しだけ、丸くなっていた。丸くなった角の触感を、俺の指は、門柱に手を添えた瞬間に、感じ取った。感じ取る精度は、もう、俺のものでは、なかった。誰の精度なのかも、もう、分からなかった。
門から玄関まで、石畳が、十二歩分、敷かれていた。石畳の脇に、久我山の妻が丹精している、と聞いた山茶花が、冬の枝を、空に向けて、伸ばしていた。花は、もう、散っていた。
玄関の引き戸が、内側から、開いた。
「透真くん、いらっしゃい」
久我山の妻の声だった。六十代の、小柄な女性だった。目元に、久我山と同じ種類の、低い火が、灯っていた。久我山の火よりも、ずっと、穏やかな火だった。
俺は、丁寧に、頭を下げた。
「おじゃまします。いつも、すみません」
「あら、何を言うの。あの人がね、透真くんが来る日はね、朝から、碁盤の前に、座ってるのよ」
朝から。
その二文字が、俺の胸の、名前のない場所を、もう一度、軋ませた。
◇
囲碁室は、二階の、北側の角部屋だった。
六畳の和室に、厚い榧の碁盤が一台、部屋の中央に、据えられていた。碁盤の木目が、四十年分の手脂で、飴色に、艶を帯びていた。
壁の一面に、「信」の一文字を、太い筆で書いた額が、掛けられていた。久我山が三十代の頃、自分で書いた字だ、と以前聞いたことがあった。
久我山は、碁盤の向こう側に、正座で、座っていた。
膝の上に、両手を、置いていた。
俺が障子を開けた瞬間、久我山は、ふっ、と、低く、笑った。
「来たか」
「はい」
「座れ」
俺は、碁盤の手前の座布団に、座った。座布団の縁の角度が、四十二度に整うのを、もう、自分では止められなかった。
久我山は、俺のその癖を、笑わなかった。笑わない代わりに、碁笥の蓋を、ゆっくり、開けた。
碁石を、五指でひとつ摘んだ。
摘んだ石を、盤の天元に、ぱちん、と置いた。
音が、畳の目の一本一本まで、伝わっていった。
◇
「久我山さん」
「ん」
「今日は、本碁で、お願いできますか」
本碁、というのは、ハンデなしの対等な勝負、ということだった。今まで俺は、九子の置き碁から、少しずつ、ハンデを減らしてもらっていた。先月は三子まで減っていた。
久我山は、碁笥の中の石を、指で、軽く、回した。
「本碁か。生意気やな」
「……はい」
「ええよ。本碁で打とう」
久我山の目が、碁盤の上で、ふと、細くなった。細くなった目の奥に、丁稚の少年だった頃から、五十五年分の勝負の記憶が、全部、詰まっていた。
俺は、碁石を、ひとつ、摘んだ。
摘んだ石の表面が、指の腹に、冷たく、当たった。冷たさの中に、碁石を握り続けた人間の手の汗の匂いが、四十年分、染み込んでいた。
俺は、右上隅の星に、石を、置いた。
久我山は、間を置かずに、右下隅に、石を、返した。
返した石の音は、俺が置いた石の音よりも、半音、低かった。
◇
五十手を過ぎた頃から、俺の中の宮園の思考力が、悲鳴を上げ始めた。
久我山の手は、一手一手が、異様だった。異様、というのは、鋭いとか深いとか、そういう言葉では足りなかった。久我山の石は、置かれた瞬間に、盤の上の他の全ての石との関係を、同時に、書き換えた。書き換えのルールが、宮園の将棋的な読み筋とは、根本的に、違った。将棋は相手の王を詰める一本道を読む。久我山の碁は、盤全体の空気の温度を、一手で、変えた。
俺は、自分の右手の人差し指の腹に、冷たい汗が滲むのを、感じた。
「……久我山さん」
「黙って打て」
久我山は、笑わなかった。
笑わない久我山の指が、六十手目を、盤の左辺に、置いた。
置かれた瞬間、俺の中の宮園の引き出しと、結城の分析の引き出しと、三条院の交渉力の引き出しが、三つとも、ぴたり、と止まった。止まった、というよりも、久我山の一手が、俺の中の全ての引き出しの扉を、外側から、閉めた。
閉められた引き出しの中で、俺の手は、七十手目で、投了した。
◇
「ワシの碁はな」
対局のあと、久我山の妻が運んできた玉露を、久我山は、ゆっくり、啜った。
「四十年前に、丁稚先の大将に、教わった碁や。大将はな、碁の打ち方を教えてくれたわけやない。碁の、待ち方を、教えてくれた」
「待ち方、ですか」
「人間もな、経営もな、碁もな、勝つのは、いちばん長く、待てたほうや。待つ、いうのはな、何もせえへん、いうことやない。相手の全体を、見続ける、いうことや。見続けて、見続けて、相手が自分から、崩れるのを、待つ」
久我山は、碁盤の上の、投了した局面を、しばらく、見ていた。
「透真。お前はな、頭のええ子やけど、一つだけ、まだ、足りんものがある」
「何でしょうか」
「自分の手で、自分の石を、置く、いう覚悟や。お前の石はな、打つたびに、誰かの石の影が、映る。それが、いつか、お前の足を、引っぱる」
俺の喉の奥が、乾いた。
乾いたのは、久我山の言葉が、的を射ていたからだった。久我山は、俺が奪った才能で打っていることを、知らないはずだった。知らないのに、碁の一手一手から、俺の中の、借り物の影を、見抜いていた。
久我山は、自分の太い指で、碁石をひとつ、拾い上げた。
拾い上げた石を、碁笥に、ことん、と戻した。
「……まあ、ええ。足りんもんは、これから、足したらええ。ワシが死ぬまでにな、お前に、ぜんぶ、教えたるわ」
ワシが死ぬまでに。
その七文字が、俺の右の手のひらの中央の器の底に、落ちた。
落ちた瞬間、器の中の全てのものが、一斉に、震えた。
震えの名前は、二つあった。
ひとつは、恩義だった。
もうひとつは、飢えだった。
二つの名前の、どちらが先に生まれたか、俺には、もう、判別がつかなかった。
◇
玄関で、久我山が、俺の肩を、叩いた。
叩いた手の温度は、大会議室の廊下で叩いた手と、同じ温度だった。同じ温度なのに、今日のほうが、少しだけ、長く、肩に残った。
「来週の総会な、ワシが壇上で話す。お前は、控室で、待ってろ」
「はい」
「お前の番は、まだ、先や」
久我山は、ふっ、と笑った。
笑った顔は、丁稚から叩き上げた男の、五十五年分の、ぜんぶの皺を使った、笑顔だった。
俺は、その笑顔を、目に焼きつけた。
焼きつけた理由を、俺は、自分に、説明しなかった。
説明しなかったのは、理由が二つあることを、もう、知っていたからだった。
ひとつの理由は、この笑顔を忘れたくないから。
もうひとつの理由は、この笑顔を、来週、壊すから。
二つの理由は、俺の中の、別々の棚から、ほぼ同時に、出てきた。
出てきた二つを、俺は、どちらも、しまわなかった。
しまわないまま、冬の坂道を、下っていった。
坂の途中で、俺は、ふと、振り返った。
久我山邸の門の上に、山茶花の枝が、空に向かって、伸びていた。花のない枝の先端が、冬の夕暮れの空に、細く、黒く、刺さっていた。
刺さった枝の向こうに、玄関の灯りが、まだ、点いていた。
灯りの向こうに、たぶん、久我山は、囲碁室に戻って、碁盤の上に、もう一度、石を並べ直しているのだろう、と思った。自分が打った石と、俺が打った石を、最初から、並べ直して、どこで俺が間違えたかを、ひとつひとつ、確かめているのだろう、と思った。
そういうことを、五十五年間、やり続けてきた人だった。
俺は、もう一度、前を向いた。
前を向いた俺の右の手のひらの中央の器の底で、恩義と飢えが、薄く、寄り添ったまま、眠りかけていた。
眠りかけているうちの、どちらが先に目を覚ますか。
その答えを、俺は、来週の株主総会までに、出さなければならなかった。




