獣の決断――久我山悟の才能を前にして
三ヶ月のあいだに、俺は、経済界の頂点に、立った。久我山グループの代表代行として取締役会を掌握し、政財界のパーティーに呼ばれるたびに名刺を出す必要がなくなり、三条院麗華のルートで国会の廊下にまで影が届くようになった。学者の知性、芸術家の感性、経営者のカリスマ、アスリートの身体能力――俺の体の中には、もう何人分の人生が入っているのか、数えることを、二ヶ月前に、止めた。数えることに意味がないのではなかった。数えると、鏡に映る自分の顔が、何番目の誰の顔なのか、一瞬、分からなくなる回数が、増えたからだった。
◇
その朝、俺は、久我山グループ本社の十六階の大会議室にいた。
楕円形のテーブルの、いちばん奥の席に、久我山悟が、座っていた。禿頭の上に、天井の間接照明の薄い光が、いつもの角度で、落ちていた。
月例の経営会議だった。
議題は、来期の事業再編と、三つの子会社の統合案。どれも、俺が原案を書いた案だった。テーブルの上の十二人の役員の手元に、俺の名前の入った企画書が、置かれていた。
久我山が、口を開いた。
「さて、始めよか」
その低い声が、大会議室の空気を、物理的に、変えた。
変えた、ということを、俺の中の安藤の引き出しが、空気の振動として、脊柱の一本一本に伝えた。久我山の声が動かす空気の質量は、俺が今まで会った誰よりも、重かった。藤堂の経営判断力を奪い、三条院議員の交渉力を奪い、桐生の行政手腕を奪ったあとでも、久我山の声だけは、まだ、俺の手の中にない、別の階のものだった。
久我山が、俺のほうを、見た。
「透真。この統合案、説明してくれるか」
透真。
俺の名前を呼ぶ久我山の声には、いつもと同じ、低い、温かい振動があった。温かさの温度が、俺の右の手のひらの中央の、底の見えない器の縁を、ふっ、と撫でた。
撫でた瞬間、器の底で、何かが、ぎゅ、と鳴った。
鳴った音の名前を、俺は、もう、知っていた。
三ヶ月間、毎朝、同じ音が鳴った。毎朝、鏡の前で髭を剃るたびに鳴った。毎朝、自分の手のひらの中央を見るたびに鳴った。
飢え、だった。
久我山の経営判断力。人心掌握術。四十年かけて帝国を築いた大局観。
あれを、喰いたい。
あの声が、俺の舌の奥で、毎朝、鳴った。
◇
統合案の説明は、十五分で、終わった。
十五分の間に、俺は、宮園の思考力で構造を組み、三条院の交渉力で質問を先回りし、結城の分析力で数字の隙を塞ぎ、久我山が以前教えてくれた「半歩上に立て」の教えを、久我山の目の前で、忠実に、実行した。
久我山は、自分の弟子の説明を、一言も遮らずに、聞いていた。
聞き終わったあと、久我山は、自分の前の湯呑みの縁を、軽く、右手の人差し指で、叩いた。
「――よう、できとる」
短かった。
短いのに、その四文字は、十二人の役員のぜんぶの肩を、同時に、下げた。肩が下がった、ということは、通った、ということだった。久我山グループの経営会議では、久我山の「よう、できとる」の四文字が、数十ページの稟議書より、重かった。
俺は、頭を下げた。
下げた頭の中で、久我山の声の振動が、まだ、残っていた。振動の波形を、俺の中の氷室的な分析の引き出しが、勝手に、数値に変換した。変換した数値の中に、久我山の四十年分の経験値が、薄く、青く、光っていた。
光っているものを、俺の手のひらの器の縁が、舐めかけた。
俺は、左手で、右の手首を、テーブルの下で、軽く、握った。
握りながら、自分に、言い聞かせた。
――まだ、早い。
三ヶ月前と、同じ四文字だった。同じ四文字なのに、三ヶ月前より、声が、薄かった。
◇
会議が終わったあと、廊下で、久我山が、俺の肩を叩いた。
叩いた手のひらの厚みが、俺の肩の筋膜を通して、俺の体の中の、安藤の引き出しまで、届いた。安藤の引き出しは、久我山の手の重さを、瞬時に、体重と筋力と骨密度に分解した。分解した数値の中に、五十五歳の男の、衰え始めた筋力と、衰えていない握力の、不均衡が、見えた。
「透真」
「はい」
「来週の土曜、暇か。ワシの家で、碁、打とうや」
囲碁。
久我山の囲碁を、俺は、赤坂の割烹の夜から、何度か、相手をさせてもらっていた。俺は碁の素人だった。素人なのに、宮園の思考力と結城の分析力を使えば、九路盤で久我山に三回に一回は勝てるようになっていた。
「喜んで、伺います」
「ええよ。うちの嫁さんがな、お前のこと、気に入っとるから。飯も、出す」
嫁さんが気に入っている。
その一言が、俺の胸の中の、いちばん深いところに、ぽとり、と落ちた。
落ちた場所は、銀色の魚と、青い線と、塩の白い跡と、駒の黒い輪郭が、全部、沈んでいる場所だった。沈んでいるものの上に、久我山の嫁さんの、名前も知らない女の、気に入っている、という四文字が、置かれた。
置かれた瞬間、俺の胸の中の、何か、もう名前のない場所が、ほんの一拍、軋んだ。
軋んだ音を、俺は、聞かなかったふりをした。
◇
夜。タワーマンションの書斎。
モニターに、株主総会の議案資料が、三面に並んでいた。来月の定時株主総会は、久我山が代表取締役として壇上に立つ、おそらく最後の総会だった。久我山の健康状態が、半年前から、ゆるやかに、下り坂に入っていた。主治医の診断書には「過労」としか書かれていなかったが、久我山自身が、俺にだけ、ぽつりと、言ったことがあった。
「ワシな、最近、数字を読むのに、三秒かかるようになった」
三秒。
久我山が三秒かかるということは、ふつうの経営者が三十秒かかるということだった。それでも、久我山には、三秒が許せなかった。彼にとって数字は一秒で見えるものだった。一秒が三秒に延びることは、久我山にとって、老いの始まりではなく、自分の根幹への侵食だった。
モニターの前で、俺は、自分の右の手のひらを、開いた。
手のひらの中央の器の縁が、三ヶ月分の飢えで、薄く、干上がっていた。干上がった縁の上に、久我山の「三秒」の言葉が、ぴたり、と乗った。
乗った瞬間、器の底から、声がした。
声は、俺のものだったか、俺の中の誰かのものだったか、もう、区別がつかなかった。
――あの人の才能を奪えば、三秒が一秒に戻る。ただし、戻る場所は、久我山の中ではない。
俺の中で、だ。
俺は、モニターの上の株主総会の日付を、しばらく、見ていた。
見ていた目の奥で、計画が、宮園の思考力と、三条院の交渉力と、梶原の政策立案能力の、三つの歯車で、静かに、回り始めていた。
回り始めた歯車を、止めようとする手は、もう、俺の中に、なかった。
◇
深夜一時。
スマートフォンの画面が、薄く、揺れた。
発信者の名前は、『兄さん』、だった。
二文字の漢字を、俺は、しばらく、見ていた。
見ていた時間は、三秒だった。
三秒後に、俺は、画面を、伏せた。
伏せたあと、別のスマートフォンを、取り上げた。
登録してある番号の中から、久我山の直通番号を、呼び出した。
呼び出しながら、俺は、自分の声が、まだ、久我山に嘘をついていないことを、確認した。嘘だけはつくな。あの割烹の夜の、あの約束を、俺は、まだ、破っていなかった。
破っていない、ということが、来週の土曜日まで、あと、何日、保つか。
呼び出し音が、三回、鳴った。
「……透真か。こんな時間に、どうした」
久我山の声は、低く、眠そうだった。眠そうなのに、その声の奥に、俺の名前を呼ぶ温かさが、まだ、薄く、灯っていた。
「すみません。株主総会の議案で、ひとつだけ、確認したいことがあって」
「ああ、ええよ。言うてみい」
久我山の声が、深夜の電話の向こうから、俺の耳に、入ってきた。
入ってきた声の温度を、俺の手のひらの器の縁が、舐めた。
舐めた舌の上で、飢えが、もう一段、深く、沈んだ。




