反撃の狼煙——追う者たちの宣戦布告
高い音が、料亭の個室に反響した。
久我山悟が、向かいから、俺を見た。鋭い眼光が、俺の顔を射抜いた。
「どうした」
「——なんでもありません」
俺は箸を拾い上げた。拾い上げる手が震えていなかったのは、安藤の精神力が反射的に体を制御したからだった。
しかし、箸を落としたことは事実だった。箸を落としたのは、スマートフォンに表示されたプッシュ通知を見たからだった。
「Loss症候群、一人の男に繋がる全ての糸」
黒田恭介の匿名ブログ。第三弾の記事。タイトルだけで、血の気が引いた。
出汁の温かい香りが、個室に漂っていた。久我山が注文した懐石料理が、テーブルの上に並んでいた。美しい盛りつけだった。料亭の名人の味覚が、出汁の温度と塩分濃度を自動的に測定していた。
「透真。顔色が悪いぞ」
「いえ——少し、体調が」
「無理するな。仕事は、体が資本や」
久我山の声は温かかった。温かさが、嘘をつく俺の胸に刺さった。刺さった場所は、もう痛みを感じなくなりつつあった。しかし、痛みを感じないことが、かえって恐ろしかった。痛みは、人間であることの証拠だった。
久我山が最も嫌うもの。嘘。
嘘をついている。今、この瞬間も。箸を落とした理由を隠した。体調が悪いふりをした。この食事の全てが、奪った才能で成り立っている事実を隠している。
久我山は、もう一度、俺を見た。見る目は心配していた。心配の奥に、何も疑っていない信頼があった。
信頼。
それが、最も鋭い刃だった。
◇
深夜。タワーマンションの書斎。
モニターに、黒田の記事が表示されていた。
記事は三千五百文字だった。灰谷透真の名前は出ていなかった。しかし、「急に才能を得た男」「久我山グループの内部で異例の出世を遂げた人物」「半年前まで中堅メーカーの万年平社員だった人物」——これらの記述を組み合わせれば、灰谷透真を特定することは難しくなかった。
記事はSNSで拡散し始めていた。Loss症候群に関心を持つ層だけでなく、ビジネス系のアカウントにも広がっていた。
俺はキーボードを打った。三条院の交渉力と桐生の行政手腕を使って、記事の削除要請をプロバイダに送るための文面を作成した。法的根拠として名誉毀損を挙げ——
指が止まった。
記事のURLを確認した。確認した。確認して、胃の底が冷たくなった。
ミラーサイト。
記事は、複数のサーバーにコピーされていた。国内三つ。海外二つ。プロバイダに削除要請を送っても、海外のサーバーには届かない。黒田は、記事を公開する前に、データを分散させていた。
打つ手がない。
いや、打つ手はある。しかし、手を打てば打つほど、記事の信憑性が上がる。削除要請を出せば「記事の内容が都合が悪い人間がいる」ことの証明になる。反応しなければ記事は拡散する。反応すれば記事は信憑性を得る。
どちらに転んでも、包囲網は狭まる。
俺はモニターの前で、頭を抱えた。抱えた頭の中で、宮園の分析力が最適解を計算し、梶原の政策立案能力が対策を構築し、三条院の交渉力が反論を組み立てていた。しかし、どの才能が出す答えも、完璧ではなかった。
完璧ではない。
それが、恐ろしかった。今まで、奪った才能の組み合わせは、全ての問題に完璧な答えを出してきた。しかし、この問題は違った。この問題の相手は、才能を奪われた人間たちだった。奪われた側の怒りは、才能では計算できなかった。
モニターの画面をスクロールした。記事のコメント欄が目に入った。匿名のコメントが並んでいた。
「Loss症候群の原因が人為的なものだとしたら、これは犯罪では?」
「犯人がいるなら特定して」
「被害者の気持ちを考えると許せない」
コメントの一つ一つが、俺の名前を呼んでいるように感じた。実名は出ていない。まだ出ていない。しかし、このまま拡散が続けば、誰かが点と点を繋ぐ。久我山グループの内部に「異例の出世を遂げた男」がいることは、業界関係者なら知っている。
俺は椅子の背に体を預けた。天井を見た。天井は白かった。白い天井の下で、俺は追い詰められていた。追い詰められていることを、奪った才能の全てが認識していた。しかし、認識することと対処することの間には、深い溝があった。
◇
翌朝。
タワーマンションのエントランスを出た。
早朝の空気が冷たかった。吐く息が白くなった。
三歩、歩いた。
四歩目で、足が止まった。
向かいの通りに、一人の男が立っていた。
逆光だった。朝日が男の背後にあった。シルエットだけが、黒く浮かんでいた。
長身。鍛えた体。背筋が真っ直ぐ。
男の顔が、逆光の中から浮かび上がった。
俺は、その顔を知っていた。
知っていたが、名前が出てこなかった。名前は記憶の底に沈んでいた。才能は覚えていた。水の才能。泳ぐ力。それを奪った相手の顔は覚えていた。名前は——
瀬川陽人。
宮園の思考力が、記憶の底から名前を引き上げた。慈善イベントの握手会。手を握った。手が冷たかった。握手した翌日、この男は泳げなくなった。
瀬川は何も言わなかった。
言わずに、俺を見ていた。
十メートルの距離。向かいの通り。朝の冷たい光の中で、二つの視線が交差した。
瀬川の目の中に、何があるか、俺には分かった。分かるのは、奪った才能のおかげだった。宮園の分析力が、瀬川の目の中の感情を読み取った。
怒り。
しかし、ただの怒りではなかった。怒りが冷えて、固まって、刃になったものだった。その刃の切っ先が、十メートルの距離を超えて、俺の喉元に当たっていた。
瀬川は、何も言わなかった。
何も言わずに、背を向けた。背を向けて、歩き出した。歩き出す背中は長身で、まっすぐで、かつてのアスリートの体だった。かつての力はもうないはずだった。しかし、背中の形は残っていた。
瀬川が角を曲がって消えた。
俺は、エントランスの前に立ったまま、動けなかった。
動けなかったのは、体が硬直したからではなかった。恐怖だった。奪った才能では制御できない、純粋な恐怖だった。
宮園の分析力が恐怖の原因を計算しようとした。三条院の交渉力が恐怖を理性で押さえ込もうとした。安藤の精神力が体の硬直を解除しようとした。
どの才能も、この恐怖を消せなかった。
この恐怖は、灰谷透真のものだった。十三人分の才能の下にある、何も持っていない男——灰谷透真の、生の感情だった。
スマートフォンが振動した。
画面を見た。
非通知の着信ではなかった。送信者名が表示されていた。
知らない番号。
メッセージが一行。
『返せ』
それだけだった。
エントランスの前で、朝の冷たい空気の中で、俺の呼吸が白く凍った。凍った呼吸の向こうに、東京の朝が広がっていた。
瀬川陽人。
あの男が、俺を見ていた。
あの男の目の中に、俺が奪った水の記憶があった。泳げなくなった体。壊れたキャリア。失われた人生。それら全てが、あの目の中で、刃になっていた。
俺は一歩、後ろに退がった。退がったことに気づいて、止まった。退がるな。逃げるな。俺は灰谷透真だ。十三人分の才能を持つ男だ。一人の元アスリートに怯える理由はない。
理由はない——はずだった。
しかし、恐怖は消えなかった。
追う者と追われる者。
その立場が、ゆっくりと、しかし確実に、逆転し始めていた。
復讐者の会の狼煙が、東京の空に上がった。




