灰谷透真を追え――名前が特定された日
パイプ椅子が二十脚、並べられていた。椅子に座っている人間は十五人だった。瀬川陽人は部屋の右端に立っていた。安藤圭吾が左端に立っていた。二人は立ったまま、部屋の中を見ていた。
十五人の中には、自助グループの常連が八人いた。残りの七人は、新しい顔だった。黒田の記事を読んで連絡してきた人間や、安藤の人脈から辿り着いた被害者たちだった。
元ピアニスト。元料理長。元画家。元プログラマー。元大学教授。元外交官。そして、名前も知らない、ただ何かを失った人間たち。
部屋の前に、織部千景が立った。
織部の背筋は真っ直ぐだった。ヴァイオリニストが舞台に立つときの姿勢だった。舞台はもうない。しかし、姿勢は残っていた。
「お集まりいただき、ありがとうございます」
織部の声は静かだった。静かで、明瞭で、部屋の隅まで届いた。
「今日、皆さんにお伝えしたいことがあります」
十五の視線が、織部に集まった。
「私たちの才能を奪った人間の名前が——分かりました」
部屋が、静まった。
静まり方が、異常だった。息を吸う音すら消えた。十五人の人間が、同時に呼吸を止めていた。
「灰谷透真。三十二歳。久我山グループの特別顧問」
三秒の沈黙。
沈黙が破れた。
「ふざけるな!」
元料理長の男が椅子から立ち上がった。顔が赤かった。
「名前が分かったなら、なぜもっと早く言わなかった! 俺はもう一年以上——一年以上、味が分からないまま——」
安藤の拳が壁を打った。鈍い音が部屋に響いた。安藤の拳から血が滲んだ。
「俺だって同じだ!」
元ピアニストの男が、黙って涙を流していた。涙は声を伴わなかった。声を出す気力すら、失われていた。ピアニストの隣に座っていた元画家の女性が、両手で顔を覆った。覆った指の間から、嗚咽が漏れた。
部屋の奥に座っていた元プログラマーの若い男が、椅子から立ち上がった。立ち上がって、何かを言おうとした。言おうとした口が開いて、閉じた。言葉が見つからなかった。論理的に考える能力を奪われた男に、この状況を言語化する力はなかった。
テーブルの上に置かれたスマートフォンのスピーカーから、宮園春人の呼吸が聞こえていた。宮園は何も言わなかった。呼吸だけが、規則的に、ノイズの向こうから流れていた。
怒号。嗚咽。沈黙。三つの感情が、部屋の中で渦を巻いた。
瀬川陽人だけが、動かなかった。
壁に背を預けたまま、立っていた。立っている瀬川の目は乾いていた。乾いた目が、織部が配った灰谷の写真を見ていた。経済誌のインタビュー写真。自信に満ちた目。
瀬川の唇が動いた。声は出なかった。声なしで、名前を口の形だけで作った。
灰谷透真。
もう一度。
灰谷透真。
背筋が、一本の槍のように伸びた。
「覚えた」
瀬川の声は小さかった。小さくて、だからこそ、怒号の渦の中で、不思議に通った。
安藤が振り返った。織部が瀬川を見た。
瀬川の目の中にあるものは、怒りではなかった。怒りの先にあるものだった。怒りが冷えて、固まって、刃になったものだった。
「灰谷透真。覚えた。忘れない」
部屋が、静かになった。怒号が止まった。嗚咽が止まった。全員が、瀬川を見ていた。瀬川の静かさが、誰の叫びよりも恐ろしかった。
◇
三日後。
久我山グループの新規事業発表会。都内の大型カンファレンスホール。参加者は五百人を超えていた。
プロジェクターの光が、壇上を照らしていた。壇上に、灰谷透真が立っていた。マイクを通した声が、会場に響いていた。
「今期の新規事業ポートフォリオは、三つの柱で構成されます。第一に、東南アジアのデジタルインフラ投資。第二に、国内製造業のDX支援。第三に——」
灰谷の声は自信に満ちていた。プレゼンテーションは完璧だった。梶原の政策立案能力がスライドの構成を設計し、三条院の交渉力がプレゼンの語り口を制御し、宮園の思考力が数字の整合性を保証していた。十三人分の才能の集大成が、壇上で輝いていた。
会場から、万雷の拍手。
拍手の波の中に、一人の男が紛れていた。
安藤圭吾。
安藤はスーツを着ていた。かつてスポーツ選手だった体格が、ビジネスマンの服に押し込まれていた。ネクタイは不慣れだった。結び目が少し歪んでいた。しかし、五百人の参加者の中に、大柄な男が一人いても、誰も気に留めなかった。安藤は意識的に姿勢を低くし、周囲のビジネスマンたちの間に紛れていた。
安藤のスマートフォンが、静かにカメラを起動していた。拍手の中で、シャッター音は聞こえなかった。
壇上の灰谷の顔を、安藤は撮影した。三枚。四枚。五枚。
自信に満ちた笑顔。手を広げるジェスチャー。会場を見渡す目。
安藤は灰谷の目を見た。あの目の中に、俺の足がある。俺が三十年かけて鍛えた足が、あの男の体の中で、別の用途に使われている。
拍手が鳴り止まなかった。灰谷は壇上で微笑んでいた。光の中で。
安藤は客席の暗がりの中で、スマートフォンを握り締めていた。
◇
夜。瀬川のアパート。
スマートフォンの画面に、安藤が撮影した灰谷の写真が映っていた。
壇上の灰谷の笑顔。五百人の前で、自信に満ちた表情で語る男。万雷の拍手を受ける男。
瀬川は、画面を握り締めた。握り締める力で、スマートフォンの筐体が軋んだ。
「こいつか」
声は、部屋の中に落ちた。
「こいつが、俺から水を奪った男か」
部屋の隅に、使われないスイムキャップが置かれていた。青い布。水の中で被るために作られた布。もう水の中に入ることはない。入っても、泳ぎ方を忘れた体には、何の意味もなかった。
瀬川はスマートフォンの画面を見つめた。灰谷の笑顔を見つめた。笑顔の中に、俺の水がある。安藤の足がある。織部の弦がある。宮園の将棋がある。
奪われたものの重さが、画面の中の笑顔の裏に、圧縮されていた。
瀬川は画面を閉じた。閉じて、スイムキャップを手に取った。手に取って、握り締めた。布が手の中で潰れた。
「灰谷透真」
三度目。
名前を口にするたびに、声が硬くなっていた。最初は記憶。次は確認。三度目は——宣告だった。
部屋の窓の外に、東京の夜景が広がっていた。夜景の光の一つ一つの下で、灰谷透真が奪ったものの上に座っていた。
瀬川は窓に近づいた。近づいて、夜景を見た。見ながら、スイムキャップを胸の前で握り続けた。
窓ガラスに額を近づけた。ガラスは冷たかった。冷たさが額に伝わった。
反撃は、始まっていた。
瀬川はスイムキャップを、丁寧に畳んだ。畳んで、テーブルの上に置いた。置いたスイムキャップの上に、灰谷の写真を表示したスマートフォンを載せた。
水と敵。
失ったものと、奪った者。
二つが、テーブルの上で重なった。
瀬川はそれを見つめた。見つめる目の中で、炎が静かに燃えていた。炎は暗く、冷たく、しかし消える気配はどこにもなかった。
明日から、灰谷透真の監視が始まる。復讐者の会の十五人が、十五の目で、灰谷を追う。灰谷はまだ知らない。自分の名前が、十五人の唇の上で、復讐の対象として刻まれたことを。
夜が更けていった。瀬川のアパートの灯りだけが、路地に面した窓から、細く漏れていた。灯りの下で、復讐者の一人が、復讐の対象を見つめ続けていた。見つめる目は閉じなかった。眠りは来なかった。来る必要がなかった。怒りが、眠りの代わりに、瀬川の体を支えていた。




