包囲網——三つの捜査線が灰谷に迫る
真壁蓮司は、上司の前に立っていた。テーブルの上に、報告書が置かれていた。厚さは三センチあった。氷室奏の統計分析、黒田から得た時系列データ、被害者の証言記録。全てを一冊にまとめた報告書だった。
「特殊対策室長。灰谷透真を参考人として任意同行を求める許可をいただきたい」
室長は報告書を見た。見る目は懐疑的だった。
「被疑事実は何だ」
「Loss症候群の被害者十三名に対する——」
「何を奪ったんだ。具体的に」
「才能です」
室長の眉が上がった。
「才能。才能を奪った。それを被疑事実として令状請求するのか」
「令状は求めていません。任意同行です。事情聴取の段階です」
「才能を奪うという行為は、刑法の何条に該当する」
真壁は答えなかった。答えられなかった。
「傷害罪は成立しないのか」
「被害者に外傷はありません。医学的な異常も見つかっていません。MRI、血液検査、神経伝導検査、全て正常。才能が消えたという主観的な証言だけです」
「詐欺か」
「被害者から金品を騙し取った事実はありません」
室長は報告書を閉じた。
「真壁。お前の分析は優秀だ。相関関係が統計的に有意だという氷室の報告も読んだ。しかし、相関関係は犯罪構成要件ではない。何の罪で呼ぶんだ。『あなた、才能を奪いましたね?』と聞くのか。相手が『何のことですか』と言ったら、それで終わりだ」
真壁は拳を握った。握った拳を、テーブルの下に隠した。
「引き続き内偵を許可してください」
室長は頷いた。
「内偵は許可する。ただし、対象への直接接触は禁止だ。久我山グループの顧問弁護士から抗議が来たら、対応できん」
真壁は頭を下げた。下げた頭の中で、怒りが煮えていた。
◇
同じ日の夕方。織部のマンション。
ホワイトボードに、東京の地図が貼られていた。地図の上に、赤いマーカーで線が引かれていた。灰谷透真の日常ルートだった。
織部が、スマートフォンの画面を全員に見せた。画面に、灰谷の遠景写真が映っていた。帝国ホテルのロビーで織部が撮影した写真。灰谷の横顔が、柱の影から、ぼやけて写っていた。
「灰谷の行動パターンは規則的です」
織部の声は冷静だった。
「朝八時に久我山グループ本社に出勤。昼は社員食堂か、近隣のレストランで一人。夕方六時から七時に退社。週に二度、帝国ホテルのバーに立ち寄る。金曜の夜は久我山会長と会食。住所はタワーマンションの最上階付近」
瀬川が地図を見た。
「次の接触を現行犯で押さえる。それが俺たちにできる最善の手だ」
「しかし、灰谷が次にいつ接触するかは分からない」
安藤が言った。
「だから、監視する。ローテーションを組んで、灰谷の行動を追う。新しい社交の場——パーティー、サロン、イベント——に灰谷が出席する情報を掴んだら、先回りする」
織部はホワイトボードに、ローテーション表を書いた。瀬川、安藤、織部の三人で、平日の夕方から夜にかけて灰谷の退社ルートを監視する。黒田は情報収集に専念する。
「危険じゃないか」
黒田が言った。
「灰谷にこちらの存在を気づかれたら、相手は久我山グループの顧問だ。尾行やストーカーで訴えられる可能性がある」
「訴えられる覚悟は、ある」
瀬川の声は硬かった。
◇
都内のカフェ。午後三時。
朝比奈沙月が、テーブルの向かいに座っていた。ショートカットの髪。丸眼鏡。飾らない白いブラウス。
真壁蓮司が、朝比奈の向かいに座っていた。
「朝比奈さん。以前の聞き取りの際にお聞きした、灰谷透真さんの変化に関する記録について——」
「はい」
朝比奈の声は小さかった。小さくて、だが確かだった。
「手帳に記録していたと仰っていましたね」
「はい。灰谷くんが変わり始めた頃から——いつ、何ができるようになったか。どんな人と会ったか。私が知る範囲で、メモしていました」
真壁は頷いた。
「そのデータを、いただけますか」
朝比奈の手が、テーブルの上で止まった。手の中に、USBメモリがあった。手帳のデータをデジタル化したものだった。
朝比奈は、USBメモリをテーブルの上に置かなかった。握ったまま、真壁を見た。
「真壁さん。一つだけ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「灰谷くんを——助けることは、できますか」
真壁は、数秒間、朝比奈を見た。朝比奈の目は赤くなかった。涙は流していなかった。しかし、その目の奥に、一年分の葛藤が、圧縮されて詰まっていた。
「捕まえたいんじゃないんです。助けたいんです。灰谷くんは——何かおかしなことに巻き込まれている。あの人は、本当は悪い人じゃない。ただ——」
朝比奈の声が、震えた。
「ただ、被害者の方たちのことを知ってしまったら——」
朝比奈は手帳のデータを渡すために来た。しかし、渡す行為は、灰谷を捜査の対象にすることを意味した。助けたいのに、追い詰めることにしかならない。その矛盾が、朝比奈の指をUSBメモリの上で止めていた。
「朝比奈さん」
真壁の声は、低かった。低いが、いつもの鋭さが、少しだけ柔らかくなっていた。
「あなたのデータが、灰谷を助けることに繋がるかどうか、今の段階では分かりません。しかし、被害者の方々——瀬川さん、安藤さん、織部さん、宮園さん——の人生が壊されたことは事実です」
朝比奈は、目を閉じた。閉じた目の裏に、何が見えたのかは分からなかった。
目を開けた。
USBメモリが、テーブルの上を滑った。小さな音がした。
「お願いします」
朝比奈の声は、震えていなかった。震えを止めるのに、勇気が必要だったことが、声の硬さに出ていた。
カフェのBGMが、遠くなっていた。
◇
特殊対策室。夜。
氷室奏のモニターに、二つのタイムラインが並んでいた。
左のタイムライン——氷室が構築した、灰谷の公的行動記録と被害者の才能喪失時期の相関データ。
右のタイムライン——朝比奈が手帳に記録していた、灰谷の能力獲得の時系列。
氷室の指が、二つのタイムラインを重ね合わせた。操作音がモニターから漏れた。
真壁が、氷室の後ろに立っていた。
「完全一致です」
氷室の声は事務的だった。
「朝比奈さんの記録は、灰谷の近くにいた人間ならではの精度を持っています。『何月何日に灰谷の話し方が変わった』『何月何日に灰谷が急に経営用語を使い始めた』。これらの日付と、被害者の才能喪失の報告日が、七十二時間以内の精度で一致します」
モニターの画面に、二つの折れ線グラフが重なった。灰谷の能力上昇曲線と、被害者の才能喪失曲線。鏡像のように、一方が上がるとき他方が下がっていた。
「パズルの最後のピースですか」
氷室が銀縁眼鏡の位置を直した。
「最後ではありません。しかし、残りのピースの形が見えるようになりました」
真壁は、モニターの画面を見つめた。二つのタイムラインが完全に重なった画面を。
「灰谷透真」
真壁の低い声が、部屋に響いた。
「包囲網は完成した。あとは——法が追いつくのを待つか、法の外に出るか」
氷室は何も言わなかった。蛍光灯の光が、銀縁眼鏡に反射した。
三つの捜査線——警察、復讐者の会、ジャーナリスト——が、灰谷透真という一つの名前に向かって、収束していた。そして四つ目の線——朝比奈沙月という一本の糸が、最後に加わった。
包囲網は閉じつつあった。閉じる速度は、灰谷がまだ知らない速度だった。
真壁はモニターの電源を落とした。落とした画面に、自分の顔が暗く映った。疲れた顔だった。しかし、目だけは鋭かった。
灰谷透真。お前を止める。




