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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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孤城——灰谷の内なる崩壊

 引き方は小さかった。肩を三センチほど横にずらす程度の動作。しかし、俺にはそれが見えた。見えるのは、瀬川の水泳選手の視力と、安藤の反射神経が、他人の身体の動きを自動的に読み取るからだった。


 敬意。


 社員たちの身の引き方は、恐怖ではなく敬意だった。久我山が「後継者」と名指しした男への。


 敬意の対象は、灰谷透真ではなかった。灰谷透真の中にある、十三人分の才能が作り出した虚像への敬意だった。それを最も正確に知っているのは、俺自身だった。


 会議室のドアを開けた。定例の経営会議だった。テーブルの向こうに藤堂が座っていた。


 藤堂の目が、俺を見た。冷たい目だった。会議のたびに冷たくなっていた。藤堂は古参の役員で、久我山に次ぐ社内の権力者だった。かつての藤堂には経営判断力があった。その力は今、俺の中にある。藤堂はそれを知らないが、自分から何かが失われた時期と、俺が台頭した時期の一致を、本能的に嗅ぎ取っていた。


 藤堂の革靴が、廊下に硬い音を残して遠ざかっていった。


 エアコンの無機質な風が、俺の襟元を撫でた。



  ◇



 昼休み。社員食堂で一人で食事をした。


 トレーの上に、定食が載っていた。白飯。味噌汁。焼き魚。彩りはなかった。


 箸を動かした。動かし方は機械的だった。料亭の名人の味覚が、焼き魚の塩加減と味噌汁の出汁のバランスを自動的に評価した。評価を止めることはできなかった。安い食事を食べるたびに、奪った味覚が勝手に品質を測定した。


 社員食堂の雑踏が、俺の周りを流れていた。笑い声。食器の音。同僚同士の会話。流れの中で、俺だけが沈黙していた。


 かつても、一人で食事をしていた。万年平社員時代、この食堂ではなかったが、似たような安い食堂で、一人で昼を食べていた。あの頃の孤独は「諦め」の色をしていた。誰も俺に興味がない。俺も誰にも興味がない。静かな諦めの中の、温い孤独だった。


 今の孤独は違った。


 周囲の人間が俺に敬意を払っている。誰もが俺に話しかけたがっている。しかし、俺は誰も信用できない。久我山だけが信頼できる人間だったが、久我山の信頼は嘘の上に立っていた。藤堂は敵だった。麗華は味方のふりをした計算者だった。


 不信の孤独は、諦めの孤独より、ずっと冷たかった。


 トレーの上の焼き魚を、箸で崩した。崩した身の断面が白く、きれいだった。きれいだと感じたのは、料亭の名人の審美眼だった。俺自身の目は、焼き魚の断面にきれいも汚いもなかった。


 食堂の隅に、新入社員らしき若い男が一人で座っていた。俯いて、味噌汁を啜っていた。小さな体。暗い目。覇気のない姿勢。


 半年前の俺だった。


 あの男が、テーブルの上のスマートフォンの画面を見ていた。画面に、就職情報サイトが映っていた。転職を考えているのだろう。才能がなくて、評価されなくて、逃げ場を探している。


 俺は目を逸らした。逸らしたのは、見たくなかったからだった。あの頃の自分を見ると、胸の奥の何かが軋んだ。軋む場所は、久我山の言葉が刺さったのと同じ場所だった。


 麗華からの電話が、今朝あった。


「灰谷くん。最近、Loss症候群について書いている匿名ブログが話題になっているわね。あなた、見た?」


「見ました」


「あの記事、読みようによっては、あなたのことを言っているように見えるけど」


 麗華の声は軽かった。軽さの中に、刃があった。


「読みようによっては、ですね」


「そうね。読みようによっては」


 電話は切れた。切れた後の沈黙が、耳の中に残った。


 包囲網。その言葉が、頭の中に浮かんだ。浮かんだ言葉を、宮園の分析力が即座に検証した。ブログの記事。藤堂の調査。麗華の探り。複数の方向から、俺の周囲に、何かが迫っている。


 それを、俺は肌で感じ始めていた。



  ◇



 夕方。オフィスの廊下で、スマートフォンが鳴った。


 画面を見た。兄の名前が表示されていた。灰谷隆一。


 窓の前に立ち止まった。廊下の窓から、夕日が差していた。俺の影が、廊下の床に長く伸びていた。


「もしもし」


「透真! 久しぶりだな。ニュースで見たぞ。久我山グループの特別顧問って、すごいな」


 隆一の声は温かかった。温かさが、スマートフォンの小さなスピーカーを通して、俺の耳に届いた。


「ああ。まあ、運が良かっただけだ」


「運じゃないだろ。お前、頑張ったんだよ。昔から——」


 隆一の声が、一瞬、止まった。


「透真。一つだけ、言っていいか」


「何だ」


「最近のお前、テレビで見ると——目が怖いぞ」


 俺のフォークを持つ——いや、スマートフォンを持つ手が、止まった。


「怖い?」


「うん。昔の透真の目じゃない。なんていうか——冷たいんだよ。氷みたいに。お前、大丈夫か? 無理してないか?」


 隆一の声は心配していた。心配の仕方は、朝比奈と似ていた。しかし、朝比奈が核心を突く言葉を持っていたのに対し、隆一はただ心配していた。純粋に、弟のことを心配していた。


 その純粋さが、胸の奥に刺さった。


 刺さった。刺さったことを感じた。一瞬だけ、何かが戻ってきた。自分が灰谷透真であるという感覚。兄がいて、兄に心配されて、その心配が嬉しいという——普通の人間の感情が。


「大丈夫だ、兄さん。心配しないでくれ」


「そうか。なら、今度飯でも行こう。お前が奢れよ、出世したんだからな」


「ああ。今度な」


 電話を切った。


 切った瞬間、戻りかけた感情が消えた。消え方は速かった。水に落ちたインクが拡散して薄まるように、隆一の声が引き出した感情が、奪った才能の層の下に沈んでいった。


 十秒後には、隆一の声の温かさを、もう思い出せなかった。



  ◇



 夜。タワーマンションのリビングで、夜景を見下ろしていた。


 窓ガラスに額を押し当てた。ガラスは冷たかった。冷たさが額から脳に伝わった。


 眼下に東京の夜景が広がっていた。光の洪水。その一つ一つが、俺の手の中にある——はずだった。


 息がガラスを曇らせた。曇った部分が広がり、夜景がぼやけた。ぼやけた夜景の中に、自分の顔が映った。


 灰谷透真の顔。


 この顔を、守らなければならない。


 ブログの記事。藤堂の調査。麗華の勘。兄の心配。朝比奈の問い。全てが、俺の足元を削っている。削られる前に、手を打つ必要がある。


 しかし、手を打つために使うのは、他人から奪った才能だった。奪った才能で奪った才能を守る。永遠に回り続ける円環。


 窓ガラスから額を離した。離した場所に、俺の額の形の曇りが残った。


 その曇りも、三十秒で消えた。


 俺の痕跡は、どこにも残らなかった。


 ソファに座った。座ったまま、右手を見た。右手の指が、また微かに動いていた。ショパンではなかった。今度はバッハだった。織部の記憶の中の、無伴奏パルティータ。祖母が弾いていた曲。


 俺は右手を左手で押さえた。押さえた左手の指も、微かに動いた。左手は、宮園の癖だった。考えるときに指を擦り合わせる癖。


 両手とも、俺のものではなかった。


 この体は、誰のものだ。


 窓の外の夜景が、答えなかった。夜景は光っているだけだった。光の中に、俺の答えはなかった。答えは、もうどこにもなかった。


 目を閉じた。閉じた目の裏に、隆一の声が残っていた。透真、大丈夫か。大丈夫ではなかった。大丈夫ではないと認める自分が、もうどこにもいなかった。孤城の中で、俺は眠った。

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