輪郭——被害者たちが描く犯人の顔
安藤圭吾はマーカーを握り、ボードの前に立っていた。壁時計の秒針が規則的に刻んでいた。時刻は午後八時。織部のマンションのリビングに、瀬川、織部、黒田の三人が集まっていた。
ボードの左側に被害者の名前。右側に灰谷透真の経歴。中央に、接触の日時と場所。矢印が、左から右へ、赤いマーカーで引かれていた。
「整理する」
安藤はマーカーで、最も古い日付を指した。
「最初の被害者は本郷誠一。灰谷の元上司。六ヶ月前。灰谷が社内で急に仕事ができるようになった時期と、本郷の能力低下が完全に一致する。接触の場所は社内。日常的に握手や肩叩きがあった」
安藤の手が、次の名前を指した。
「二番目。俺だ。安藤圭吾。五ヶ月前。青山のスポーツジムで灰谷と会った。体験入会で来た男だった。最後に握手をした。あの男は——」
安藤は言葉を切った。自分の手を見た。かつてボールを蹴った足と同じように、今は何も掴めない手だった。
「あの男は、地味で、自信がなくて、目を合わせるのが苦手な男だった。声が小さくて、おどおどしていた」
瀬川が腕を組んだ。
「俺が会った灰谷は違う」
瀬川の声が、低く響いた。
「四ヶ月半前。競泳振興のチャリティーイベント。握手会で並んでいた男。スーツを着て、姿勢が良くて、目に自信があった。安藤が会った男と同一人物とは思えない」
ホワイトボードの前で、安藤のマーカーが止まった。
「同じ男なのに、印象がまるで違う」
「当然です」
織部が口を開いた。織部はソファに座り、ノートパソコンを膝に載せていた。
「安藤さんが会った時点の灰谷は、本郷の営業力しか持っていなかった。瀬川さんが会った時点では、安藤さんの運動能力も加わっている。才能を奪うたびに、あの人自身が変わっていくんです。外見も、態度も、声も」
部屋の空気が、重くなった。
◇
安藤はスマートフォンをテーブルに置いた。スピーカーフォンに切り替えた。
呼び出し音が三回鳴った。四回目の途中で、繋がった。
「もしもし」
宮園春人の声だった。かつての鋭さを失った声だった。声の中に、靄がかかっていた。通話のわずかなノイズが、その靄をさらにぼかしていた。
「宮園さん。安藤です。先日お話しした件で、もう一つ確認させてください」
「……はい」
「銭湯で会った男のことです。その男と握手したとき、何か気づいたことはありませんでしたか」
数秒の沈黙。沈黙の向こうで、宮園が記憶を掘り起こしていた。掘り起こす作業が、宮園にとってどれほど辛いものか、安藤には分かっていた。記憶の中に、かつての自分——七冠に手が届きそうだった自分——がいるからだった。
「手が……冷たかったです」
スピーカーフォンから流れた声に、リビングの四人が反応した。瀬川のペットボトルが軋んだ。織部のタイピングが止まった。黒田のペンが動いた。
「冷たかった?」
「はい。異常に。夏だったのに。銭湯の中なのに。あの人の手だけが、氷みたいに冷たかった。それが……妙に印象に残っています」
安藤は瀬川を見た。瀬川が小さく頷いた。
「瀬川さんの時もか」
「ああ。握手した手が、冬みたいに冷たかった」
「俺も同じだ」
安藤は自分の手を見た。あの日の冷たさを、体が覚えていた。
「宮園さん。ありがとうございます。体を大事にしてください」
「安藤さん。その男を……見つけてください」
宮園の声が、通話の最後に、少しだけ力を取り戻した。通話が切れた。切れた後の沈黙が、リビングに落ちた。
◇
「同一人物でありながら、印象がまるで違う」
織部がノートパソコンの画面を操作しながら言った。
「安藤さんが会った灰谷は『地味で自信がない男』。瀬川さんが会った灰谷は『自信に満ちた男』。宮園さんが会った灰谷は『穏やかだが目だけが光っていた男』。私が会った灰谷は『余裕のある態度の男』」
ホワイトボードに、四人の証言が並んでいた。安藤が書いたメモだった。
「時系列順に並べると、変貌のパターンが見えます」
織部の指がボードを指した。
「最初——本郷の営業力だけを持っていた段階では、基本的に地味なまま。安藤さんの運動能力を奪った後から、姿勢が良くなり、動作に自信が出る。瀬川さんの水泳の才能を奪った後は、身体能力が目に見えて向上。宮園さんの思考力を奪った後は、目に知性の光が宿る。私の音楽的感性を奪った後は、所作に優雅さが加わる」
織部は息を吸った。
「才能を奪うたびに、あの人は文字通り別人になっていく。変貌そのものが、奪った才能があの人を変えている証拠です」
安藤は、ホワイトボードのマーカーを置いた。
「証拠か。だが、法廷で通用する証拠じゃない」
「法廷の話はしていません」
織部の声は静かだった。
「今は、私たちの間で真実を共有することが重要です。あの人が何者で、何をしてきたのかを、正確に理解すること。理解した上で、次の手を打つ」
◇
黒田がノートパソコンを操作した。画面に、一枚の画像が表示された。
「安藤さんが入手した、灰谷の元勤務先の社内報のデータだ」
画面に、社内報のPDFが映った。三年前の号。「営業部の新人紹介」というコーナーに、小さな顔写真が載っていた。
灰谷透真。
写真の中の男は、目が死んでいた。
痩せた顔。薄い唇。無表情。自信のかけらもない。カメラを見ているのに、カメラから目を逸らしたがっているような、そんな目だった。存在感がなかった。集合写真の中で、最も見落とされやすい位置に立っていた。
四人が、画面を見た。
「これが——灰谷透真」
安藤は呟いた。
経済誌のインタビュー写真と、社内報の顔写真を、並べた。
同一人物だった。しかし、別人だった。
社内報の灰谷は、何も持っていない男だった。自信もなく、才能もなく、存在感もなかった。経済誌の灰谷は、全てを持っている男だった。自信に溢れ、知性に輝き、権力の中心に座っていた。
その間に、何が起きたのか。
安藤たちは知っていた。安藤の足が、瀬川の水が、織部の弦が、宮園の将棋が——それらが全て、あの空虚な男の中に流れ込んで、あの経済誌の写真の男を作り上げたのだ。
「気持ち悪い」
瀬川が言った。声は低く、硬かった。
「俺たちの——俺たちが人生をかけて磨いたものが、あの男の皮の下に入って、あの男を別人にしている。寄生虫だ。他人の才能に寄生して、他人の形に変わっていく寄生虫だ」
安藤は何も言わなかった。言う代わりに、ホワイトボードの灰谷の名前を見た。名前の上に引かれた赤い矢印が、五人の被害者から一つの名前に集まっていた。
全ての矢印の先に、灰谷透真がいた。
安藤はスマートフォンを手に取った。瀬川と織部に向き直った。
「次は、宮園に直接会いに行く。電話じゃなく、顔を見て話す。同じ被害者として」
瀬川が頷いた。織部が頷いた。
壁時計の秒針が、刻み続けていた。
安藤は窓の外を見た。夜の東京が広がっていた。この街のどこかに、灰谷透真がいる。タワーマンションの最上階で、奪った才能に囲まれて、東京を見下ろしている。
しかし、灰谷はまだ知らない。見下ろしている街の中に、自分を見上げている目があることを。復讐者の会の目。真壁の目。黒田の目。そして、病院のベッドから空を見つめている宮園の目。
全ての目が、灰谷透真に向いていた。
復讐者の会の包囲網は、一人分ずつ、確実に狭まっていた。




