結果と嘘——久我山の経営哲学が暴く矛盾
旋盤が回る音。プレス機が降りる振動。鉄の匂いと、切削油の甘い匂い。久我山グループの傘下にある地方の精密機械工場だった。従業員二百名。年商八十億。グループ全体から見れば小さな部品だったが、久我山悟はこの工場を年に二度、必ず訪れていた。
俺は久我山の後ろを歩いていた。久我山は一人一人の職人に声をかけていた。
「おう、山下。息子の受験はどうなった」
「おかげさまで、合格しました。会長にはご心配いただいて」
「そうか。よかったな。お前の手の技術は息子に見せとるか? 受験より大事なもんもあるで」
山下という職人が笑った。笑いながら、作業台の上の金属部品を手に取った。部品は小さかった。親指の爪ほどの大きさだった。山下の手は大きかった。節くれ立った指と、厚い皮の手のひら。その手が、小さな部品を、一ミクロンの精度で仕上げていた。
久我山は山下の手を見ていた。見る目に、尊敬があった。
「山下。お前の手は、三十年かけてできた手や。機械じゃ作れへん。人間だけが持てる手や」
山下の目が潤んだ。
俺は、その光景を見ていた。見ながら、胸の奥が軋んだ。
三十年かけてできた手。俺の手は、何年かけてできた手だ。半年だ。半年前まで何もなかった手が、十三人分の才能を抱えている。三十年と半年。その差が、久我山の言葉の中で、残酷な重さを持っていた。
◇
工場の休憩室で、久我山と二人で座った。
安い自販機のコーヒーだった。久我山の大きな手がカップを包んでいた。窓から西日が差して、久我山の顔に影を落としていた。
「透真。お前、さっきの山下の手を見てたな」
「はい」
「あれが才能や。三十年、同じことを毎日やって、毎日少しずつ上手くなって、気がついたら誰にも真似できん手になっとる。才能いうのは、そういうもんや。一朝一夕にはできん」
コーヒーの苦みが、舌の上に広がった。料亭の名人の味覚が、インスタントコーヒーの安い原料を分解しようとした。分解を、意識的に止めた。今は、ただ苦いコーヒーを飲みたかった。
「結果を出す奴が偉い。ワシはそう言うてきた。シンプルな話や」
久我山の声は低く、落ち着いていた。
「だがな、結果を出すまでの過程に嘘がある奴は、いつか全部持っていかれる」
俺のカップを持つ手が、止まった。
「ワシは何百人もそういう人間を見てきた。粉飾、横領、経歴詐称。全部、最初は上手くいくんや。結果が出とる間は、誰も疑わへん。だが、嘘は膨らむ。膨らんだ嘘はいつか破裂する。破裂したとき、結果も信用も、全部吹き飛ぶ」
久我山は俺を見なかった。窓の外の工場の敷地を見ていた。見ながら話していた。
「お前にそれがないことを、ワシは信じとる。信じとるから、後継者に選んだ」
信じとる。
その言葉が、胸に刺さった。刺さった場所が、熱かった。かつて罪悪感と呼ばれていたものがあった場所だった。
俺は何も言えなかった。
◇
帰りの社用車の中で、久我山は目を閉じていた。居眠りをしているように見えた。車窓を地方の風景が流れていた。田んぼ。用水路。低い山の稜線。
久我山が、目を開けた。
「透真。一つ、言うとかなあかんことがある」
「はい」
「藤堂が、お前のことを調べとるらしい」
俺の背中に、冷たいものが走った。
「藤堂は古狸や。ワシがお前を後継者に指名したのが気に入らん。自分の派閥の人間を後継にしたかったんやろう。お前の経歴の穴を探しとる」
革シートが軋んだ。久我山の低い声が、車内に反響した。
「気にするな。ワシが選んだ人間を、あんな古狸が何と言おうとかまわん。お前はお前の仕事をすればええ」
久我山は、もう一度、目を閉じた。
俺は車窓の外を見た。風景が流れていた。流れていく風景が、ぼやけていた。ぼやけているのは、目が潤んでいたからではなかった。景色の解像度が、奪った才能の処理負荷で変動しているだけだった。
藤堂が調べている。
宮園の分析力が、リスクを計算した。藤堂の調査が俺の経歴の空白にたどり着く可能性。半年前まで万年平社員だった男が、突然有能になった理由。それを合理的に説明する方法は——ない。
しかし、久我山が俺を守っている。久我山の信頼は絶対だった。グループ内で久我山に逆らえる人間はいない。藤堂がどれだけ調べても、久我山が俺の側にいる限り、経歴の空白は問題にならない。
車窓の外を、工場の煙突が流れていった。煙突から白い煙が上がっていた。煙は風に流されて、形を変えて、消えていった。俺の嘘も、あの煙のように、いつかは消えるのだろうか。消える前に、形が変わって、別の何かになるのだろうか。
久我山が、眠りの中で、小さく唸った。唸り声は低く、穏やかだった。五十五年間、結果を出し続けてきた男の、安息の唸りだった。
久我山の信頼。
俺がこの男から奪った才能で出した結果に対する、この男の信頼。
車の窓ガラスに、俺の顔が映った。映った顔は、また、見知らぬ男の顔だった。
◇
夜。タワーマンションの部屋で、灯りをつけなかった。
暗い部屋のソファに座って、目を閉じた。
自分の記憶を思い出そうとした。万年平社員時代の記憶。朝七時に起きて、満員電車に乗って、会社に行って、本郷に怒鳴られて、帰って、コンビニ弁当を食べて、寝る。その繰り返し。
映像が浮かんだ。
浮かんだ映像が、ぼやけていた。
自分の部屋の間取りが思い出せなかった。六畳だったか、八畳だったか。窓は東向きだったか、南向きだったか。壁の色は何色だったか。
代わりに、別の映像が鮮明に浮かんだ。安藤圭吾が高校時代にPKを決めた瞬間の芝生の匂い。瀬川陽人が初めて全国大会に出場した日の、プールの塩素の匂い。織部千景が国際コンクールの舞台で弓を振り下ろした瞬間の、客席の息を呑む音。
他人の記憶は鮮明だった。自分の記憶はぼやけていた。
こめかみを、指で押さえた。指先は冷たかった。
俺の記憶が、他人の記憶に塗り替えられている。奪った才能と一緒に流れ込んできた記憶が、俺自身の記憶の領域を侵食している。
コンビニ弁当の味を思い出そうとした。毎日食べていたはずの、あの安い弁当の味。思い出せなかった。代わりに、料亭の名人が三十年かけて磨いた味覚の記憶が、舌の上に蘇った。出汁の引き方。塩の振り方。包丁の入れ方で変わる食感の違い。全てが、俺のものではない記憶だった。
灰谷透真の記憶は、どこに行った。
暗い部屋の中で、目を開けた。開けた目の前に、天井があった。天井の色は白かった。白い天井の下で、俺は——俺は誰だ。
立ち上がった。窓に近づいた。窓の外の夜景を見た。夜景は変わらなかった。光の格子。権力の地形図。しかし、その格子の一つ一つが、今日は少しだけ暗く見えた。
久我山の言葉が、頭の中で鳴り続けていた。
過程に嘘がある奴は、いつか全部持っていかれる。
全部持っていかれる。
その言葉の意味が、工場の職人の節くれ立った手の記憶と重なって、俺の胸の奥を圧迫していた。
俺は灰谷透真だ。
そう思った。思ったが、灰谷透真がどんな人間だったのか、輪郭が曖昧になっていた。
暗い部屋の中で、俺は目を開けた。開けた目の前に、東京の夜景があった。夜景は俺のものだった。夜景の下の全てが、俺の手の中にあった。
しかし、手の中にあるものの重さが、俺の輪郭を押し潰していた。




