蜘蛛の巣——織部の戦略
壁のホワイトボードシートは、前回の三倍の大きさになっていた。織部の細い指がマーカーを握り、ボードに文字を刻んでいった。アルコール臭が、リビングに漂った。マーカーの先がボードを擦る乾いた音が、四人の沈黙の中で響いた。
瀬川陽人がテーブルの右に座り、ペットボトルの水を握り締めていた。ペットボトルが軋んだ。安藤圭吾が左に座り、靴の先で床を叩いていた。貧乏ゆすりではなかった。焦燥だった。黒田恭介がテーブルの奥に座り、ノートパソコンを開いていた。
ホワイトボードの中央に「灰谷透真」の名前。その下に、三つの段階が書かれた。
「第一段階——証言の体系化」
織部は、マーカーをボードに当てたまま、振り返った。
「私たちが持っているのは、現時点で四人分の証言です。私、瀬川さん、安藤さん、園田選手。全員が灰谷との直接接触の後に才能を喪失した。この四件に加えて、本郷という元上司のケースを安藤さんが確認しています」
安藤が頷いた。
「五件。五件の一致は偶然ではない。しかし、五件では足りません。灰谷が接触した人間は、もっといるはずです。財界、芸術界、スポーツ界。あらゆる分野で、突然の能力喪失が起きている。その中に、灰谷との接触歴がある人間を見つけ出す」
織部はボードに「被害者数→拡大」と書いた。
「第二段階——社会的信用の崩壊」
織部のマーカーが、次の段を指した。
「灰谷透真の経歴の矛盾を可視化する。半年前まで万年平社員だった男が、突然、久我山グループの特別顧問になった。その間に何があったのか。灰谷の昇進と被害者の転落の相関を、数字として示す。黒田さんのブログ記事は、その第一歩です」
黒田が画面から目を上げた。
「第三段階——社会的制裁」
織部の声が、一段、低くなった。
「法的立証が不可能な以上、裁判で灰谷を裁くことはできない。才能を奪うという行為は、現行法では定義されていない。だから、別の方法で追い詰めます。メディアと世論。灰谷透真の社会的信用を完全に崩壊させ、あの人が立つ場所を、すべて奪う」
マーカーがボードに「社会的死」と書いた。
沈黙が落ちた。
「それだけじゃ足りない」
瀬川の声が、低く響いた。
「足りない、とは」
「社会的に追い詰めても、灰谷は俺たちの才能を返さない。俺の水は戻らない。安藤の足は戻らない。織部さんの音は戻らない。社会的に殺しても、奪われたものは返ってこない」
瀬川の声に、怒りがあった。怒りは熱くなかったが、深かった。
織部は瀬川を見た。見る目は穏やかだった。穏やかさの下に、同じ深さの怒りがあった。
「瀬川さん。まず社会的に殺す。その後のことは、その時に考えましょう」
瀬川の目が、織部の目を捉えた。二つの目の間に、何かが通じた。言葉にならない約束が、交わされた。
◇
安藤が手を挙げた。
「第一段階の話だが、まだ復讐者の会に合流していない被害者がいる。宮園春人だ」
黒田が頷いた。
「天才棋士。七冠目前で突然の思考力喪失。Loss症候群の名前が世に出たきっかけの男だ。入院中と聞いている」
「宮園に会えれば、証言が一つ増える。灰谷との接触があったかどうかを確認できる」
テーブルの上に広げられた被害者リストに、宮園春人の名前があった。名前の横に「入院中・面会困難」と書かれていた。
「面会の手配は俺がやる」
安藤が言った。安藤の声には、実行部隊の自覚があった。
「スポーツ界の人脈で、宮園の周辺に繋がれる人間がいるはずだ。病院の面会制限があっても、関係者経由なら——」
「無理はしないで」
織部が言った。
「宮園さんの精神状態は不安定です。追い詰めてはいけない。接触するなら、同じ被害者として」
安藤は頷いた。
◇
黒田がノートパソコンの画面を全員に向けた。
「一つ報告がある。昨日、真壁蓮司という刑事から連絡があった」
三人の視線が、黒田に集まった。
「警視庁の特殊対策室。Loss症候群の捜査を担当している部署だ。真壁は俺のブログ記事を読んだらしい。直接会って話がしたいと言ってきた」
瀬川の顔が、硬くなった。
「警察か」
「警察だ。ただし、特殊対策室は通常の刑事課とは違う。異能犯罪を扱う非公開部署だ。真壁という男は、Loss症候群の背後に人為的な原因があることを既に疑っている可能性がある」
窓の外で雨が降り始めていた。雨音がガラスを叩いた。
「連携するか」
安藤が聞いた。
意見が割れた。
「情報は共有すべきだ」
黒田が言った。
「真壁が灰谷に辿り着くのは時間の問題だ。俺たちと真壁が別々に動くより、情報を共有した方が効率がいい」
「しかし」
瀬川の声が低かった。
「警察に任せたら、法の範囲でしか動けない。逮捕状を取るには物的証拠が必要で、才能を奪うという行為の物的証拠なんて存在しない。警察は動けない。動けないのに、俺たちの情報だけ持っていかれる」
雨音が強くなった。
織部が口を開いた。
「警察は法の範囲でしか動けない。私たちはその外側をやる」
全員が、織部を見た。
「黒田さん。真壁さんには会ってください。情報は受け取る。しかし、こちらの全てを渡す必要はない。特に、復讐者の会の存在と、私たちが灰谷の名前を既に特定していることは、まだ伏せておく」
黒田は頷いた。
「分かった。まず俺が単独で会って、真壁がどこまで掴んでいるか確認する」
「それでお願いします」
織部の声は平坦だった。戦略を組み立てるときの織部は、感情を完全に切り離していた。ヴァイオリニストが演奏中に感情を音に変換するように、織部は怒りを戦略に変換していた。
◇
全員が帰った後、織部はリビングに一人で立っていた。
ホワイトボードの前に立って、自分が書いた文字を見ていた。第一段階。第二段階。第三段階。社会的死。
壁に、ヴァイオリンが掛かっていた。弓は弦の上に載ったまま動かない。毎日拭いている。弾けないものを、毎日拭いている。
織部は、右手を持ち上げた。持ち上げた右手が、空を掴んだ。弓を握る動作だった。弓はそこになかった。指だけが、あるはずのものの形を覚えていた。
ホワイトボードの隅に、灰谷透真の顔写真が貼ってあった。経済誌から切り抜いた写真。自信に満ちた目。その目が、織部を見ていた。
織部は、写真に近づいた。近づいて、写真の中の灰谷の目を見た。
この目に、私の音楽が映っている。
この男の中に、私が三十年かけて育てた音が、閉じ込められている。
織部の目から、涙は出なかった。涙は枯れていた。涙の代わりに、弦を限界まで引き絞った弓のような張力が、織部の体の中で震えていた。
「必ず」
声は、リビングの空気に吸い込まれた。
「必ず、終わらせる」
壁のヴァイオリンが、沈黙したまま、織部の背中を見ていた。雨音が窓を叩いていた。雨の向こうの東京のどこかに、灰谷透真がいた。
織部は写真の前に立ったまま、右手を下ろした。下ろした手は、スカートの布を掴んだ。掴む力が強くて、布に皺ができた。
三十年かけて育てた音が、この男の中にある。
三十年分の練習。三十年分の舞台。三十年分の拍手。祖母から受け継いだヴァイオリン。初めてコンクールで一位を取った日の、審査員の涙。カーネギーホールのステージに立つ前夜の、震える手。
全てが、灰谷透真という見知らぬ男の皮の下に沈んでいる。
織部は目を閉じた。閉じた目の奥で、かつてのカーネギーホールの客席が見えた。二千八百の席が、全て埋まっていた。あの拍手は、もう聞こえない。
目を開けた。
ホワイトボードの三段階戦略が、織部の目の前にあった。冷静な戦略。論理的な計画。しかし、その全ての出発点にあるのは、一人の女性の、三十年分の怒りだった。
復讐の蜘蛛の巣は、まだ細かった。しかし、一本ずつ、確実に、張られていった。




