食卓の真実——朝比奈の問い
テーブルは六つしかない。木のテーブルの表面に古い傷がいくつもあった。ガーリックオイルの温かい匂いが、店の中に充満していた。グラスのワインに、暖色の照明が映っていた。
この店に最後に来たのは、一年以上前だった。朝比奈沙月と二人で来た。あの頃の俺は、まだ万年平社員だった。営業成績は最下位で、本郷に毎日怒鳴られて、謝ってばかりいた。この店のパスタが千二百円で、それが当時の俺の昼食予算の三倍だった。
朝比奈が「おごるよ」と言った。俺は「すみません」と言った。あの頃の俺は、いつも謝っていた。
今の俺は、この店のワインリストの最も高い一本を注文して、眉一つ動かさなかった。
朝比奈沙月が、向かいに座っていた。ショートカットに丸眼鏡。飾らない服装。変わっていなかった。一年前と何も変わっていなかった。変わったのは、俺だけだった。
「久しぶりだね、灰谷くん」
朝比奈の声は穏やかだった。穏やかさの中に、何かを測るような注意深さがあった。
「久しぶりだ。朝比奈」
「元気そう。すごく元気そう」
「まあ、な。仕事が順調だから」
「うん。ニュースで見たよ。久我山グループの特別顧問。すごいね」
朝比奈はパスタを巻いた。巻く手つきは不器用だった。一年前と同じ不器用さだった。その不器用さが、妙に、目に染みた。
「灰谷くんがこんなに出世するなんて、正直、びっくりした」
「俺もびっくりしてる」
嘘だった。びっくりなどしていない。当然だと思っていた。当然だと思えることが、かつての俺には不可能なことだった。
「でも」
朝比奈はパスタを口に運んだ。噛んで、飲み込んで、ワインを一口飲んで、それから俺を見た。
「心配してるの」
「何を」
「灰谷くんのこと」
朝比奈の丸眼鏡の奥の目が、俺を見ていた。その目の見方を、俺は知っていた。一年前と同じ見方だった。俺が本郷に怒鳴られて落ち込んでいるとき、「大丈夫?」と聞いてきたときの、あの目だった。
「心配するようなことはない」
「うん。そうかもしれない。でもね」
朝比奈は、グラスをテーブルに置いた。置く音が、小さく響いた。
「最近、灰谷くんの周りで、おかしなことが起きてない?」
◇
おかしなこと。
俺はフォークを動かしながら、朝比奈の言葉の意味を考えた。考えるのに、宮園の分析力が自動的に起動した。朝比奈の表情、声のトーン、質問の順序。全てを解析して、朝比奈が何を知っているのかを推測した。
「おかしなこと?」
「うん。たとえば——」
朝比奈は、バッグから手帳を取り出した。手帳は古かった。革のカバーが擦り切れていた。
「本郷さんのこと、覚えてる?」
「ああ。元上司だ」
「本郷さん、左遷されたよね。灰谷くんが急に仕事ができるようになった頃に」
「偶然だろ」
「偶然かもしれない。じゃあ、安藤圭吾っていうサッカー選手のこと、知ってる?」
俺のフォークが、一瞬止まった。止まったのは零コンマ三秒だった。三条院の交渉力が、即座にフォークを動かし直した。しかし、朝比奈はその零コンマ三秒を見ていた。
「知らない。サッカーは見ない」
「そうだよね。じゃあ、Loss症候群っていう言葉は?」
「ニュースで聞いた程度だ」
朝比奈は手帳を開いた。開いたページに、何かが書いてあった。俺からは読めなかった。
「灰谷くん」
朝比奈の声が、変わった。穏やかさは残っていた。しかし、穏やかさの下に、震えがあった。震えは恐怖ではなかった。悲しみだった。
「それ、本当にあなたの力なの?」
ボサノバのBGMが、急に遠くなった。
遠くなったのは、俺の耳が朝比奈の声だけに集中したからだった。
「何の話だ」
「今の灰谷くんの力。経営分析とか、交渉力とか、判断力とか。全部。それ、本当に灰谷くんのもの?」
朝比奈の声が震えていた。震えの中に、涙が滲んでいた。丸眼鏡の奥の目が、赤くなっていた。
「朝比奈。俺は努力した。久我山さんに認められるだけの——」
「嘘だよ」
朝比奈の声は小さかった。小さくて、だからこそ、刺さった。
「灰谷くんは、努力で変わったんじゃない。ある日を境に、別人になった。私、ずっとそばで見てたから分かるよ。あなたは一年前まで、営業資料の作り方も、交渉の仕方も、全然できなかった。それが、ある朝、突然、全部できるようになった。そんなこと、あり得ない」
俺は、朝比奈を見た。朝比奈の目は、俺を告発していなかった。心配していた。心配の色が、告発よりずっと、胸に重かった。
動揺した。
動揺を、宮園の分析力が検知した。安藤の精神力が、動揺を押さえ込んだ。三条院の交渉力が、表情を制御した。三つの他人の才能が、連携して、俺の中の動揺を封じ込めた。
俺は、笑った。
完璧な笑みだった。頬の筋肉が、正確な角度で持ち上がった。目尻が下がり、歯が見えた。久我山の前で見せるのと同じ、余裕のある笑みだった。
「朝比奈。心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だ。俺はただ、きっかけを掴んだだけだ。誰にでもある。ある日突然、何かが噛み合う瞬間が。俺にとってはそれが——」
「灰谷くん」
朝比奈が、俺の言葉を遮った。遮り方は静かだった。
「昔の灰谷くんは、そんな顔で笑わなかった」
笑みが、顔に貼りついたまま動かなくなった。
「昔の灰谷くんの笑い方は、もっと——不器用だった。目が泳いで、ちょっと恥ずかしそうで、でも、嬉しそうだった。今の灰谷くんの笑い方は——」
朝比奈は、丸眼鏡を外した。外した目が、裸のまま俺を見た。
「——完璧すぎて、怖い」
フォークを持つ手が、テーブルの下で震えた。震えを止めるのに、宮園の分析力と安藤の精神力を同時に使った。止められた。止められたことが、朝比奈の言葉の正しさを証明していた。
◇
店を出た。
渋谷の夜の雑踏が、二人を包んだ。人の波が、左右に流れていた。
「灰谷くん。私は、あなたの味方だよ」
朝比奈が言った。言葉は短かった。短い言葉の中に、一年分の心配が詰まっていた。
「もし何かあったら——何かが、どうしようもなくなったら——私に言って。何もできないかもしれないけど、聞くことはできるから」
俺は、何も言わなかった。何も言えなかった。
朝比奈は「じゃあね」と言って、雑踏の中に歩き出した。ショートカットの後頭部と、少し猫背の背中が、人の波に混ざっていった。混ざって、消えた。
俺は、立ったまま、朝比奈が消えた方向を見ていた。
手のひらが、無意識に握られていた。握った手のひらの中に、汗があった。汗は冷たかった。
朝比奈の才能を奪おうと思ったことは、一度もなかった。朝比奈には、奪うべき突出した才能がなかった。経理の事務能力は優秀だが、俺の能力の前では微々たるものだった。奪う価値がなかった。
奪う価値がないから、奪わない。
その理由が、俺を救っていることに、俺は気づいていた。もし朝比奈に突出した才能があったら、俺は——
考えるのをやめた。
夜風が頬を冷やした。冷たさの中に、一年前の記憶が混じった。この同じ通りを、朝比奈と二人で歩いた夜。俺が「すみません、おごってもらって」と言い、朝比奈が「いいよ、たまにはね」と笑った夜。
あの夜の俺は、何も持っていなかった。何も持っていなかったが、朝比奈の隣にいた。
今の俺は、全てを持っている。全てを持っているが、一人で立っている。
渋谷の雑踏が、俺の周りを流れていった。流れの中で、俺だけが動かなかった。




