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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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追われる者の影——灰谷、初めての緊張

 空調の低い唸りだけが、部屋を満たしていた。窓の外の東京の夜景には目もくれず、俺の目はモニターの光を浴びていた。


 Loss症候群。


 その検索ワードで定期的にウェブを巡回するのは、俺の日課になっていた。宮園の思考力が、リスク管理の必要性を自動的に算出していたからだった。自分に関する情報が世に出ていないか確認する——それは自己防衛の基本だった。


 匿名のブログ記事が、検索結果の三ページ目に表示されていた。


 「Loss症候群と『才能移転』仮説——偶然の相関か、未知の現象か」


 俺の瞳孔が、収縮した。


 記事を開いた。キーボードを叩く指先が冷たくなっていた。


 三千文字の記事だった。実名は一つも出ていなかった。しかし、時系列の相関パターンが、正確に記述されていた。「急に才能を得た人物」の上昇曲線と、「突然才能を失った人々」の転落が、グラフで可視化されていた。


 実名は出ていない。だが、このパターンが指す人間は、一人しかいなかった。


 俺だ。


 胸の奥で、何かが締まった。締まる感覚が、不快だった。不快さの正体は、恐怖だった。恐怖を感じたのは、能力を覚醒して以来、初めてだった。


 追われている。


 誰かが、俺を追っている。


 宮園の思考力が即座にリスクを計算した。記事は匿名。アクセス数は少ない。まだ脅威ではない。しかし、放置すれば、雪だるま式に拡散する可能性がある。この記事を書いた人間を特定し、対処する必要がある。


 俺は記事のURLをコピーした。



  ◇



 翌日の夜。都内の高級レストランの個室。


 三条院麗華が向かいに座っていた。ワインの酸味が口の中に広がった。料亭の名人の味覚が、自動的にぶどうの品種と産地を割り出した。ボルドー、サンテミリオン。二〇一八年。


 麗華の香水の甘い残り香が、個室のカーテンの向こうから漏れる他のテーブルの笑い声と混じっていた。


「灰谷くん。今日は、お願いがあるって聞いたけど」


 麗華の声は軽かった。軽さの中に、計算があった。


「一つ調べてほしいことがある。匿名のブログを書いている人間の身元だ」


 俺はスマートフォンの画面を麗華に見せた。麗華は画面を一読した。読むのが速かった。


「Loss症候群の記事ね。これが、あなたと何の関係があるの?」


「関係はない。ただ、久我山グループの名前が間接的に示唆されている。グループの広報上のリスクだ」


 嘘は滑らかだった。三条院の交渉力が、嘘に説得力を持たせていた。


 麗華は、ワイングラスを口に運んだ。唇が赤かった。唇が笑っていた。笑いの種類が、いつもと違った。


「灰谷くん」


「はい」


「あなた、何か隠してるでしょう?」


 俺の指が、テーブルの下で動いた。


「何のことですか」


「分からないわ。でもね、私、人の嘘を嗅ぎ分けるのだけは得意なの。父の政界で育ったから」


 麗華の目が、俺の目を見た。見る目の中に、好奇心と計算が同居していた。敵意ではなかった。しかし、味方の目でもなかった。利害関係だけで繋がった同盟の、脆い底が見えた。


「調べてはあげる。でも、見返りは後で請求するわ」


 俺は頷いた。頷きながら、苛立ちを感じていた。味方がいない。久我山は師だが、真実を知れば切り捨てるだろう。麗華は駒だが、駒は利益がなくなれば寝返る。朝比奈は——


 朝比奈のことは考えなかった。考えないようにした。



  ◇



 夢を見た。


 夢の中で、俺は芝生の上に立っていた。少年の体だった。五歳くらいの。足の下の芝が柔らかくて、剥き出しの足の裏に、草の冷たさが伝わってきた。


 安藤圭吾の記憶だった。


 少年の俺——安藤の体を借りた俺は、白いボールを蹴った。ボールが飛んでいく軌道が、美しかった。美しさが分かるのは、安藤の感性がまだ生きているからだった。


 場面が変わった。


 水の中にいた。水面から差し込む光が、白い紋様を水底に描いていた。音がなかった。水中の完全な静寂。肺の中の空気が減っていく感覚。減っていくのに、恐怖はなかった。水は味方だった。水は、瀬川陽人の故郷だった。


 場面が、また変わった。


 膝の上にいた。誰かの膝の上。温かい膝だった。膝の上から、ヴァイオリンの音が聞こえていた。祖母が弾くヴァイオリン。織部千景の祖母。旋律はバッハだった。無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ。音の一つ一つが、幼い耳に沁み込んでいた。


 三つの記憶が、同時に再生された。


 芝生と水中と祖母の膝が、混ざり合った。混ざり合った記憶の中で、俺——灰谷透真は、どこにもいなかった。俺の記憶は、一つもなかった。俺の幼少期には、芝生もなかった。プールもなかった。祖母のヴァイオリンもなかった。あったのは、団地の四畳半と、何もない休日と、テレビの音だけだった。


 他人の記憶は美しかった。美しいからこそ、残酷だった。



  ◇



 目が覚めた。


 洗面所の鏡の前に立った。蛇口から水滴が落ちていた。規則的に。音が、タイルの上で跳ねていた。


 鏡に映った自分の目を見た。


 目の焦点が、一瞬、ずれた。ずれて、戻った。


「俺は灰谷透真だ」


 声に出した。声は、洗面所の壁に当たって返った。


「俺は灰谷透真だ」


 二度、言った。二度目は一度目より強かった。強く言わなければ、信じられなくなりそうだったからだった。


 洗面台の上で、スマートフォンが振動した。振動が、タイルの上で大きく響いた。


 画面を見た。非通知の着信だった。


 出た。


 無音だった。


 三秒の無音。五秒。十秒。


 誰かが、電話の向こうで、何も言わずに、俺の息を聞いていた。


 俺は電話を切った。


 切った後、鏡の中の自分を、もう一度見た。


 鏡の中の男は、灰谷透真だった。灰谷透真のはずだった。しかし、その男の目の奥に、何人もの人間の影が、重なって映っていた。


 追われている。


 外側から追われている。ブログの記事。非通知の着信。


 そして、内側からも追われている。安藤の足。瀬川の水。織部の指。宮園の思考。奪った人間たちの記憶が、俺の中で、元の持ち主に帰ろうとしていた。


 俺は洗面台の縁を握った。握った手が白くなった。


 まだ、制御できる。


 まだ、大丈夫だ。


 その「まだ」が、昨日より一つ増えていた。


 部屋の中に戻った。キッチンに立った。冷蔵庫を開けた。中には、高級スーパーで買った食材が並んでいた。かつてのワンルームの冷蔵庫には、コンビニの弁当と缶ビールしか入っていなかった。


 あのワンルームの住所が、思い出せなかった。埼玉の——どこだった。駅名すら曖昧になっていた。


 冷蔵庫を閉じた。食欲はなかった。料亭の名人の味覚が、冷蔵庫の食材の品質を自動的に評価してしまうせいで、自分で料理を作る気が起きなかった。何を作っても、味覚が「不十分だ」と告げる。俺の手は料亭の名人の手ではなかったから、味覚の要求に応えられなかった。


 奪った才能が、俺の日常を蝕んでいた。食事も、睡眠も、鏡を見る行為も。全てが、俺以外の誰かの基準で測られていた。


 リビングのソファに座った。座ったまま、天井を見た。天井の蛍光灯が、ジジジ、と微かに鳴っていた。あの公民館の蛍光灯と同じ音だった。


 誰かが、この音を聞いているのだろうか。


 俺の知らない場所で、俺の才能を奪われた人間たちが、同じような音を聞きながら、夜を過ごしているのだろうか。


 その考えを、宮園の分析力で即座に押し殺した。押し殺す速度が、日を追うごとに速くなっていた。

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