猟犬の嗅覚——黒田恭介の追跡
正確には、壁はあったが、見えなかった。付箋。プリントアウト。新聞の切り抜き。雑誌のコピー。壁一面を覆い尽くした調査資料の表面が、深夜のモニターの光に青白く照らされていた。インクの匂いと、コーヒーの匂いが、六畳のワンルームに澱んでいた。
黒田は、デスクの前に座っていた。キーボードを叩く指は乾いていた。乾いた指が、画面の上のスプレッドシートにデータを打ち込んでいた。
時系列表。
縦に日付。横に二つの列。「灰谷透真の経歴変遷」と「Loss症候群発症報告」。
この表を、黒田は三ヶ月かけて作った。最初は「偶然の一致」だと思った。二件目で「偶然にしては妙だ」と思った。三件目で確信に変わった。復讐者の会と合流した今、ピースの数は倍になっていた。
黒田の目が、画面を追った。
六ヶ月前。灰谷透真、社内営業成績が突如急上昇。同時期に、営業部課長の本郷誠一が「判断力の著しい低下」で配置転換。
五ヶ月前。灰谷、久我山グループに中途入社。同時期に、プロサッカー選手の安藤圭吾が「原因不明の運動能力喪失」で引退発表。
四ヶ月半前。灰谷、久我山グループ内で急速に昇進。同時期に、競泳日本代表候補の瀬川陽人が引退会見。
四ヶ月前。灰谷、業界パーティーで複数の財界人と接触。同時期に、天才棋士の宮園春人が七冠挑戦を辞退。
三ヶ月前。灰谷、三条院家のサロンに出席。翌日、ヴァイオリニストの織部千景がカーネギーホール公演をキャンセル。
線は一本だった。灰谷透真という一本の線が、上昇するたびに、誰かが地面に落ちていた。
黒田はキーボードから手を離した。椅子の背に体を預けた。天井を見上げた。天井にも付箋が貼ってあった。
「こいつは——化け物だ」
声は、部屋の中に消えた。
◇
翌日の午後。都内の、チェーン系のカフェ。
テーブルの上に、二台のノートパソコンが向かい合っていた。黒田のパソコンと、織部千景のパソコンだった。
黒田の向かいに、織部と瀬川が座っていた。安藤は店の入口近くのカウンター席に一人で座り、周囲を見ていた。尾行の有無を確認する役割だった。
カフェの雑踏が、天然の情報遮断として、四人の周りを包んでいた。
「黒田さん。あなたの時系列表を見せてください」
織部が言った。
黒田はパソコンの画面を織部に向けた。織部の目が、画面を追った。追う速度が速かった。データを読み込む目だった。
「私のものと照合します」
織部が自分のパソコンの画面を黒田に向けた。二つの画面に、二つの時系列表が並んだ。
一致していた。
黒田が独自に作った表と、織部が保険調査をもとに作った表が、同じ結論を指していた。灰谷透真の上昇と、被害者たちの転落が、完全に相関していた。
「独立した調査で同じ結果が出た」
黒田が言った。声を抑えていたが、目に光があった。
「これは科学で言う追試成功です。一人の調査なら偏見かもしれない。しかし、二系統の独立した調査が同じ結論に至った。偶然ではあり得ない」
瀬川が黒田を見た。
「黒田さん。あんた、この情報をどうするつもりだ」
「記事にする。ただし、実名は出さない。まだ出せない。証拠が状況的すぎる。だから、最初はパターンだけを提示する。『急に才能を得た人物と、突然才能を失った人々。この相関は偶然か?』という問いかけを、読者に投げる」
瀬川の目が細くなった。
「それで、灰谷に気づかれないか」
「気づかれる可能性はある。だが、気づいたとしても、実名が出ていなければ法的には動けない。こちらは匿名ブログだ。灰谷が反応すれば、それ自体が証拠になる」
織部が頷いた。
「猟犬の戦略ですね。獲物を追い立てるのではなく、獲物が自分から動くように仕向ける」
黒田は薄く笑った。
「猟犬。悪くない」
◇
深夜。黒田の部屋。
モニターの光だけが、狭い部屋を照らしていた。
ブログの管理画面が開いていた。記事のタイトルは「Loss症候群と『才能移転』仮説——偶然の相関か、未知の現象か」。三千文字の記事だった。実名は一つも出していない。灰谷の名前も、被害者の名前も、伏せてある。しかし、時系列の相関パターンだけは、正確に記述していた。
黒田の指が、「公開」ボタンの上で止まった。
止まった指が、微かに震えていた。
この記事を出せば、後戻りはできない。灰谷透真が——あるいは灰谷の背後にいる久我山グループが——反応する可能性がある。フリーのルポライターには、身を守る盾がない。大手メディアの看板もない。訴訟を起こされれば、法務費用だけで潰される。
黒田は、壁の付箋を見た。付箋の一枚に、安藤圭吾の引退会見の写真が貼ってあった。安藤の目は空虚だった。その隣に、瀬川陽人の写真があった。瀬川の目は涙で濡れていた。
黒田の指が、ボタンを押した。
画面に「公開しました」の文字が表示された。
表示された瞬間、部屋の空気が変わった。変わったのは気のせいだった。気のせいだと分かっていた。
◇
三時間後。
黒田は眠れずにいた。ベッドの上で天井を見ていた。天井の付箋が、暗闇の中で白く浮かんでいた。
スマートフォンを手に取った。ブログの管理画面を開いた。
アクセスカウンターの数字が、動いていた。
通常、黒田のブログの記事は、公開初日で五十から百程度のアクセスしかない。ニッチなテーマのフリーランスのブログだった。読者は限られていた。
カウンターの数字は、四百三十七を示していた。三時間で。
黒田はベッドから起き上がった。デスクに座り、パソコンを開いた。アクセスログの解析ツールを立ち上げた。
アクセス元のIPアドレスが並んでいた。大半は個人のプロバイダだった。SNSの拡散経由。Loss症候群に関心を持つ人々が、記事をシェアしていた。
黒田の目が、一つのIPアドレスに止まった。
企業の固定IPだった。
逆引きを実行した。
画面に、結果が表示された。
久我山グループ本社。
黒田の胃の底が、冷たくなった。
久我山グループの誰かが、この記事を読んだ。灰谷透真本人か、灰谷の周辺か、あるいは久我山グループの広報部門か。いずれにせよ、三時間以内に、この記事は敵の目に触れた。
黒田は、窓の外を見た。深夜の街路に、人影はなかった。街灯の光が、アスファルトの上で白く光っていた。
見られている。
その感覚が、黒田の背中に張りついた。
黒田はスマートフォンを取り出した。瀬川にメッセージを送った。
『記事を出した。三時間で久我山グループからアクセスがあった。想定より早い。注意してくれ』
送信した。
送信した後、黒田は部屋の鍵を確認した。確認してから、カーテンを閉めた。閉めたカーテンの向こうに、東京の夜が広がっていた。
猟犬は獲物の匂いを追う。しかし、獲物が振り向いたとき、猟犬の心臓は跳ねる。
黒田恭介の心臓は、深夜の静寂の中で、確かに跳ねていた。
しかし、恐怖は黒田を止めなかった。
黒田はベッドに戻った。戻ったが、眠れなかった。天井の付箋を見ていた。付箋の一枚に、自分で書いたメモがあった。「なぜこの記事を書くのか」。
理由は単純だった。才能を奪われた人間たちの声を、世界に届けるためだった。フリーのルポライターには大手メディアの看板もなければ、警察の権力もない。あるのはペンだけだった。ペンは弱い武器だった。しかし、弱い武器でも、正しい場所に刺されば、巨人を倒すことができる。
黒田は目を閉じた。閉じた目の裏に、安藤の空虚な目と、瀬川の涙に濡れた目が浮かんだ。
あの二人のために、書く。
その覚悟が、恐怖を上回っていた。




