後継者の椅子——久我山の王冠
プロジェクターの光が、俺の背後のスクリーンに、四十二枚のスライドを映し出していた。久我山グループの第三四半期業績予測と、新規事業ポートフォリオの再構築案。俺が三日で作り上げた資料だった。三日で作れたのは、俺の能力ではなかった。梶原の政策立案能力が全体構想を設計し、藤堂から奪った経営判断力が数字を組み立て、宮園の思考力が論理の飛躍を接続した。俺はただ、それらを統合する器だった。
十二人の役員が、テーブルの両側に座っていた。俺がスライドを進めるたびに、役員たちの表情が変わっていった。懐疑が驚きに変わり、驚きが感嘆に変わった。
「東南アジアのデジタルインフラ投資は、三年以内に回収可能です。ただし、進出先はベトナムとインドネシアの二国に絞る。タイは政治リスクが——」
三条院の交渉力が、俺の口調に説得の厚みを加えていた。桐生秘書官の行政手腕が、政治リスクの解像度を上げていた。
俺は、十二の才能の複合体として、この会議室に立っていた。
テーブルの端で、藤堂が腕を組んでいた。藤堂の目は冷たかった。冷たい目で、俺を見ていた。藤堂はかつてこの会社の経営判断力そのものだった男だ。その力は今、俺の中にある。藤堂はそれを知らない。知らないが、何かを感じている。動物的な勘が、自分から何かが欠けた時期と、俺が台頭した時期の一致を、嗅ぎ取っている。
プレゼンが終わった。
久我山悟が、テーブルの上座から、立ち上がった。禿頭に蛍光灯の光が反射していた。低い声が、会議室に響いた。
「ワシの後継者はこいつや。異論ある奴は手を挙げろ」
誰も手を挙げなかった。藤堂の目だけが、一瞬、細くなった。
俺は、頂点に最も近い椅子に座っていた。座っているのが自然だった。自然に感じることが、かつての俺には不可能なことだった。
◇
会議後、久我山は俺を社長室に招いた。
革張りのソファが軋んだ。久我山が棚から日本酒を出した。上等な酒だった。注ぐ音が、透明に響いた。壁に「初心」と書かれた額が掛かっていた。久我山が自分で書いた字だった。字は太く、粗かった。
「飲め」
俺はグラスを受け取った。酒の香りが鼻腔を満たした。料亭の名人の味覚が、自動的に銘柄と醸造年度を割り出した。
「透真。お前はワシの後継者や。それは本心から言うとる」
「ありがとうございます」
「ただな」
久我山は、自分のグラスを口に運ばなかった。グラスを手に持ったまま、俺を見た。
「結果を出す奴が偉い。シンプルだろ? ワシはそう言うてきた。裸一貫から三千億を作ったのは、結果を出し続けたからや」
久我山の目が、俺の目を捉えた。鋭い眼光だった。この目で何千人もの人間を見てきた目だった。
「だがな、結果の出し方に嘘があったら、全部崩れる」
俺の指が、グラスの上で動いた。動いたことに、自分で気づくのに一秒かかった。
「嘘、ですか」
「嘘いうのは、数字をごまかすことだけやない。自分自身にごまかしがあったら、どこかで必ず綻ぶ。ワシは何百人もそういう人間を見てきた。才能のある奴ほど、ごまかしに気づかへん。自分はごまかしてへんと思い込む。お前にそれがないことを、ワシは祈っとる」
久我山の言葉が、俺の胸の奥の、どこか深い場所に刺さった。刺さった場所は、かつて「罪悪感」と呼ばれていたものがあった場所だった。今はもう、その場所には何もなかった。何もないはずだった。
なのに、久我山の言葉が、刺さった。
「……大丈夫です。俺は、嘘はついていません」
声が、自分の声に聞こえなかった。
◇
帰りの車の中で、右手が動いた。
ハンドルの上に置いた右手の指が、ダッシュボードの縁を叩いていた。規則的に。五本の指が、複雑なパターンで。
ショパン。
ノクターンの第二番。
俺はショパンを弾いたことがない。俺はピアノを習ったことがない。この指の動きは、俺のものではなかった。
織部千景。
織部の音楽的感性を奪ったとき、指が覚えていた動きが、俺の体に残っている。日中、無意識に、それが漏れ出していた。昨日は料理中に包丁を握る手が、料亭の名人の手つきに変わった。一昨日は、会議中に宮園の癖——額に人差し指を当てて考える仕草——が、出た。
奪った才能は、俺の中で統合されている。統合されているはずだった。しかし、統合の隙間から、元の持ち主の記憶と動作が漏れ出していた。漏れ出す頻度が増えている。
俺は、自分の右手を左手で掴んだ。掴んで、止めた。止めた瞬間、指が抵抗した。弾きたがっていた。指が、俺ではない誰かの意志で、動こうとしていた。
バックミラーに、自分の目が映った。自分の目の中に、見知らぬ光があった。その光がいつから宿っているのか、俺には分からなかった。
久我山の言葉が、頭の中で反響した。
結果の出し方に嘘があったら、全部崩れる。
嘘。
俺がやっていることは嘘なのか。
嘘ではない。俺は才能を手に入れた。手に入れ方が普通ではないだけだ。手に入れた才能は本物だ。本物の才能で本物の結果を出している。プロセスが違うだけだ。
プロセスが違うだけ。
そう考えた。考えたことは、自然だった。自然に考えられることが、かつての俺には不可能なことだった。自然に自分を正当化できることが、俺が変わった証拠だった。変わったのは、成長したからだ。
成長。
その言葉を、頭の中で転がした。転がした言葉が、どこかで引っかかった。引っかかった場所に、久我山の声があった。
自分自身にごまかしがあったら。
◇
タワーマンションのエレベーターに乗った。
ステンレスの壁に、俺の顔が映った。
映った顔を見た。
見た瞬間、分からなくなった。
この顔は誰の顔だ。
灰谷透真の顔。俺の顔。だが、俺の顔がどんな顔だったか、もう思い出せない。鏡に映っている顔は、灰谷透真の骨格の上に、何人もの人間の表情が重なったものだった。目の光は宮園の知性で、口元の余裕は三条院の交渉力で、姿勢の良さは瀬川の身体能力で、指先の繊細さは織部の感性で——
誰だ。
エレベーターが上昇していた。上昇する振動が、胃の奥に響いた。耳鳴りのような静寂が、狭い箱の中を満たしていた。
ステンレスの壁に映った顔が、歪んでいた。歪みはステンレスの反射のせいだった。反射のせいだと分かっていた。分かっていたのに、歪んだ顔が、俺の本当の顔に見えた。
エレベーターのドアが開いた。
廊下に出た。出た瞬間、右手の指が、またショパンを弾き始めた。今度は止めなかった。止めると、指が怒るような気がしたからだった。
指が怒る。
俺の指が、俺以外の誰かの感情で、怒る。
その恐怖を、俺は宮園の思考力で分析し、三条院の交渉力で自分自身を説得し、桐生の行政手腕で対策を立案した。奪った才能で、奪った才能の副作用を処理した。
処理できた。処理できたことが、さらに恐ろしかった。
俺はまだ、全てを制御できている。制御できているうちは、大丈夫だ。
大丈夫だ。
廊下を歩きながら、俺は三度、自分にそう言い聞かせた。三度目の「大丈夫だ」が、一度目より、少しだけ、弱かった。
部屋のドアを開けた。暗い部屋に入った。灯りをつけた。
リビングの窓の外に、東京の夜景が広がっていた。光の格子。格子の一つ一つが、俺が支配しようとしている世界の断片だった。
右手の指が、また動き始めた。ショパンのノクターン。織部の指が覚えている旋律。
今度は、左手も動いた。左手は伴奏だった。右手がメロディーを奏で、左手がアルペジオを刻んでいた。ピアノは目の前にない。しかし、両手は完璧な演奏を再現していた。
俺は、自分の両手を見下ろした。
灰谷透真の手ではなかった。織部千景の手だった。
その手が、俺の腕の先についていた。




