灰谷透真——その名前の重さ
保険調査書類。コピー用紙の束。付箋の貼られたノートパソコン。紅茶のポットから湯気が細く立ち上がっていたが、三人の誰もカップに手を伸ばしていなかった。
壁に、ヴァイオリンが掛かっていた。ケースは開いていた。弓は弦の上に載ったまま動かない。埃は積もっていなかった。織部が毎日拭いているからだった。弾けないものを、毎日拭いていた。
瀬川陽人と安藤圭吾が、テーブルの向かいに座っていた。二人の目は、織部の顔を見ていた。
◇
「灰谷透真」
織部は、その名前を、声に出した。
声は静かだった。静かで、平らで、何の感情も載っていないように聞こえた。けれど、名前を発音した直後、織部の右手の指先が、膝の上で微かに震えた。弓を握る指の震えだった。弓はもうない。震えだけが残っていた。
瀬川の体が、椅子の上で硬くなった。安藤の拳が、テーブルの下で握られた。
「三十二歳。元・中堅メーカーの営業部社員。現在は、久我山グループの特別顧問」
織部は、テーブルの上の書類の一枚を手に取った。
「私がこの名前に辿り着いたのは、保険です」
「保険」
瀬川が聞き返した。
「カーネギーホールの公演をキャンセルしたとき、興行保険の支払い審査がありました。保険会社は原因を調べます。原因不明の演奏能力喪失では、保険金が支払われるかどうか、微妙だったんです。だから調査が入った」
織部は、書類をテーブルの中央に置いた。保険調査報告書のコピーだった。調査員の署名がある。
「調査員が聞いたのは、喪失の直前に何か変わったことはなかったか、という質問でした。私は最初、思い当たることはないと答えました。でも、調査員が丁寧だった。サロンの参加者名簿を取り寄せて、一人一人、確認していった」
織部の声は、滑らかだった。滑らかすぎた。何度もこの話を頭の中で反芻したことが、声の滑らかさに出ていた。
「三条院家のサロンに出席した夜。演奏の後のレセプションで、何人かと握手をしました。その中に、一人だけ、名刺を持っていない男がいた」
織部は、ノートパソコンの画面を瀬川と安藤の方に向けた。画面に、久我山グループの公式サイトが表示されていた。経営陣紹介のページ。灰谷透真の名前の横に、写真があった。
経済誌のインタビュー記事の写真だった。スーツを着た男。端正ではないが、自信に満ちた顔。目の奥に、何かを見透かすような光があった。
瀬川の喉が鳴った。
「この男だ」
声が、掠れた。
「慈善イベントで——競泳振興のチャリティーで——俺と握手した男だ。握手した後、会場を出た。出た後に、足が動かなかった。動かないんじゃなく、泳ぎ方を忘れていた」
安藤が身を乗り出した。安藤の拳の関節が白くなっていた。
「俺も覚えてる。スポーツジムの体験入会で来た男だ。一緒にトレーニングして、最後に握手した。あの夜から——体が別人になった。蹴り方を忘れた。走り方を忘れた。全部」
三人の視線が、パソコンの画面の上の一つの名前に集中した。
灰谷透真。
三つの証言が、一本の線で繋がった。繋がった瞬間、リビングの空気が、質量を持ったように重くなった。
◇
「警察に行きましょう」
安藤が言った。
織部は、首を横に振った。
「まだ早い」
「なぜだ」
「才能を奪う。その行為を、法律でどう定義しますか」
安藤の口が閉じた。
「暴行でもない。傷害でもない。窃盗でもない。奪われたものが何なのか、医学的にも科学的にも証明できない。Loss症候群の原因すら不明のまま。私たちが警察に行って、『この男に握手されたら才能が消えた』と言ったら、どうなるか分かりますか」
沈黙が落ちた。沈黙の中で、紅茶のポットの湯気だけが動いていた。
瀬川が口を開いた。
「精神科を紹介される」
「そうです。最悪の場合、虚偽告訴で逆に訴えられる。相手は久我山グループの特別顧問です。弁護士も金もある」
織部は、パソコンの画面をスクロールした。久我山グループの企業情報が表示された。年商三千億。従業員数八千人。政財界との太いパイプ。灰谷透真は、その中枢にいた。
安藤の顔から、血の気が引いた。
「こんな——こんな大きな組織の人間を、俺たちが……」
「だからこそ追い詰める」
瀬川の声は、静かだった。静かで、硬くて、折れない声だった。
「大きいから追い詰められないんじゃない。大きいから、落ちたときの音がでかいんだ」
安藤が瀬川を見た。瀬川の目の中に、炎があった。炎は暗かったが、消える気配はなかった。
「でも、証拠がなければ——」
「証拠は作る」
織部が言った。
瀬川と安藤が、織部を見た。
織部は椅子から立ち上がった。立ち上がって、バルコニーへの窓を開けた。夜風が吹き込んで、テーブルの上のコピー用紙が微かに揺れた。
◇
バルコニーから見える夜景が、ガラスの向こうに広がっていた。東京の灯りが、無数の点として散っていた。その灯りの一つ一つの下に、灰谷透真に才能を奪われた人間がいるかもしれなかった。
織部は、バルコニーの手すりに手を置いた。夜風が髪を揺らした。
瀬川と安藤が、バルコニーに出てきた。
「見てください」
織部は、パソコンを持ったまま振り返った。画面に、一枚の表が表示されていた。
時系列表だった。
縦軸に月日。横軸に二つの列。左の列に「灰谷透真の経歴変遷」、右の列に「Loss症候群発症者」。
瀬川の目が、表を追った。
灰谷透真が久我山グループに入社した月。同じ月に、ある企業の古参役員が「原因不明の判断力低下」で退任していた。
灰谷透真が特別顧問に就任した月。同じ週に、ある財務官僚が「突然の職務遂行能力の喪失」で休職していた。
灰谷透真が経済誌のインタビューを受けた月。その前月に、安藤圭吾が引退会見を開いていた。
灰谷透真が三条院家のサロンに初出席した日。その翌日に、織部千景がカーネギーホール公演のキャンセルを発表していた。
表の左列が上昇するたびに、右列が一つずつ増えていた。灰谷が階段を上るたびに、誰かが地面に落ちていた。
「偶然、じゃないですね」
安藤が呟いた。声が震えていた。
「偶然ではありません」
織部の声は、震えていなかった。震えの代わりに、弦を限界まで引き絞った弓のような張力があった。
「この表のパターンを、もっと精密に作り上げます。被害者の数を増やし、時系列の一致を記録し、灰谷が接触した全ての人間を洗い出す。法的な証拠にはならなくても、状況証拠の山を作ることはできる」
瀬川が頷いた。
「それを、どこに持っていく」
「二つあります。一つは、マスコミ。もう一つは——」
織部は、一度、言葉を切った。夜風がバルコニーを吹き抜けた。パソコンの画面の光が、三人の顔を青白く照らしていた。
「もう一つは、灰谷透真自身です」
瀬川と安藤が、同時に織部を見た。
「追い詰めるのは、社会的にだけではありません。灰谷透真という人間の内側を、崩す。あの男が奪ったものの重さを、あの男自身に突きつける。それが、私たちにしかできないことです」
夜景の灯りが、パソコンの画面に反射していた。灰谷透真の時系列表と、東京の夜景が、一枚のガラスの上で重なっていた。
瀬川は、夜景を見た。夜景の中の、どこかのビルの中に、灰谷透真がいた。瀬川から水を奪い、安藤から球を奪い、織部から弦を奪った男が、奪ったものの上に座って、東京を見下ろしていた。
「復讐者の会」
瀬川が言った。
安藤と織部が、瀬川を見た。
「俺たちの名前だ。復讐者の会。被害者の会じゃない。復讐者の会だ」
安藤が頷いた。織部が頷いた。
三人の影が、バルコニーの床に長く伸びていた。三つの影が、夜景の光の中で、一つの形に重なっていた。
復讐者の会の最初の夜が、始まった。




