灰の中の火種——自助グループの変貌
蛍光灯が一本、ジジジ、と虫の鳴くような音を立てていた。その音が妙に大きく聞こえるのは、誰も喋っていないからだった。
瀬川陽人は、円の端の椅子に深く腰を下ろしていた。隣の席は空いていた。二つ先に安藤圭吾がいた。安藤は紙コップのコーヒーを両手で包んでいたが、一度も口をつけていなかった。コーヒーはとっくにぬるくなっていた。
自助グループの定例会は、月に二度、同じ部屋で開かれていた。参加者はその日、八人だった。全員が、何かを失った人間だった。ピアニスト、料理長、画家、プログラマー、教授、そして瀬川と安藤。七人の椅子の上で、七つの空洞が、蛍光灯の光を浴びて、静かに息をしていた。
司会の中年の女性が、「今日も順番に、近況を」と言った。最初の男が口を開いた。元ピアニストの四十代の男だった。
「先週、妻が、家にあったピアノを処分したいと言いました。弾けないなら、邪魔だから、と。弾けない、のではなく、弾き方を忘れたのですが、妻にはその違いが分からないようです」
男の声は、穏やかだった。穏やかすぎて、生温い水に浸かっているみたいだった。
次の女性も、次の男も、似たような声で、似たような話を、淡々と語った。失ったものの名前と、失ってからの生活の話。聞いている側の瀬川の指が、椅子の座面の縁を、ぎり、と掴んだ。安藤も気づいていた。安藤の視線が、瀬川の手に落ちていた。
六人目が話し終えたとき、瀬川は、黙って立ち上がった。
司会の女性が「瀬川さん、お願い」と促した。促す必要はなかった。瀬川はもう立っていた。
◇
「俺は瀬川陽人です。元、競泳の選手でした」
声が、会議室の壁に当たって返った。瀬川の声は低く、硬かった。
「皆さんは、毎回、ここに来て、同じ話をしている。失ったものの話。変わってしまった日常の話。それを聞いて、互いに頷いて、帰っていく。それで楽になるなら、いい。俺も、最初は、そうだった。でも、もう——」
瀬川は、一度、言葉を切った。蛍光灯のジジジという音が、その隙間に流れ込んだ。
「——もう、傷の舐め合いじゃ、足りない」
部屋の空気が、変わった。
「俺たちは、患者じゃない。被害者だ」
瀬川の右手が、パイプ椅子の前のテーブルを、一度だけ、叩いた。乾いた音が反響した。ぬるいコーヒーが、紙コップの中で揺れた。
「原因不明の病気じゃない。誰かが、俺たちの才能を、奪ったんだ。奪った人間がいるなら、見つけ出す。見つけ出して——」
そこで、瀬川は、声の力加減を、一段、落とした。
「見つけ出して、どうするかは、その時に考える。でも、見つけなきゃ、始まらない」
八人の視線が、瀬川の顔に集まった。集まった視線のうち、五つは困惑で、一つは怯えで、残りの一つ——安藤圭吾の目だけが、ゆっくりと、光を帯びた。
「俺もそう思う」
安藤が立ち上がった。立ち上がった安藤の体はまだ大きかった。大きかったけれど、その大きさの中身が、半分くらい抜けたような、妙な軽さがあった。
「犯人がいるなら、見つけ出す。俺たちは病人じゃない」
二人が立った。六人は座ったままだった。座ったまま、ぬるいコーヒーの水面を、見つめていた。
◇
会議室の扉が、静かに開いた。
遅れて入ってきた女性を、瀬川は最初、知らなかった。黒いワンピースに、髪を後ろで一つに束ねた女。化粧は薄く、穏やかな顔立ちをしていたが、その穏やかさの奥に、何か、弦を限界まで張り詰めたような硬さがあった。
司会の女性が「織部さん、ようこそ」と声をかけた。
織部千景。
瀬川はその名前を知っていた。ニュースで見た。カーネギーホールの公演を、直前にキャンセルしたヴァイオリニスト。理由は「原因不明の演奏能力の喪失」。Loss症候群の名が世に出る前から、彼女の名前は、音楽ファンの間で静かに囁かれていた。
織部は円の空いた席に座った。座りながら、司会が配った参加者名簿に、さりげなく目を落としていた。名簿を読む目の動きが、他の参加者とは違っていた。名前を追っているのではなく、名前の奥にある何かを、探していた。
瀬川は、その目の動きに、気づいた。安藤も気づいていた。二人は、織部を挟んで、視線を一瞬だけ交わした。
◇
定例会が終わった後、参加者たちが、一人、また一人と、会議室を出ていった。
三人だけが、残った。
瀬川と安藤と、織部だった。
司会の女性が最後に「お先に失礼します」と言って出ていった。扉が閉まった。会議室の蛍光灯が、相変わらずジジジと鳴っていた。
三人の間に、数秒の沈黙があった。窓の外の街灯が、三人の影を床に長く引いていた。
瀬川が口を開いた。
「織部さん。さっき、名簿を読む目が、普通じゃなかった」
織部は、微かに笑った。笑いの形が、穏やかなのに、どこか、刃物じみていた。
「よく見ていますね、瀬川さん」
「見る目だけは、まだ残ってるんで」
「私もです。音はまだ聞こえます。ただ、聴こえたものを——」
織部は、そこで一瞬だけ言葉を止め、右手を膝の上で、何かを掴むように、ゆっくり閉じた。ヴァイオリンの弓を握る動作だった。弓はそこになかった。
「——音楽に変えることが、できないだけです」
安藤が、小さく息を吐いた。その吐息は、共鳴の音だった。
織部は、瀬川と安藤を、交互に見た。それから、声を、ほんの少しだけ、低くした。
「瀬川さん。安藤さん。さっきの話、本気ですね」
「本気だ」
瀬川が即答した。
「なら、一つだけ、先にお話ししたいことがあります」
織部は、膝の上で閉じていた右手を、ゆっくり開いた。開いた手のひらの上には、何も載っていなかった。何も載っていないことが、彼女が全てを失ったことの、いちばん正確な証明だった。
「私、犯人の名前を、知っています」
公民館の外を、トラックが一台、低い振動を残して通り過ぎた。
瀬川の息が止まった。安藤の拳が、膝の上で、白くなった。
蛍光灯のジジジという音だけが、三人の沈黙の中で、まだ、鳴っていた。
織部の言葉が、空気の中に留まっていた。犯人の名前を知っている。その言葉が、三人の間の距離を一瞬で縮めた。
瀬川は立ったまま、織部を見ていた。見る目の中に、半年間の絶望と怒りが圧縮されていた。引退会見で流した涙は、もう乾いていた。乾いた後に残ったものは、涙より硬いものだった。
安藤の拳が、膝の上で、ゆっくりと開いた。開いた手のひらを見た。かつてボールを蹴った足と同じように、今この手で何ができるのかを、安藤は考えていた。何もできない手だった。しかし、拳を握ることはできた。
織部は二人を見た。見ながら、微かに頷いた。頷きは小さかったが、確信に満ちていた。
「明日、私のマンションに来てください。全てをお話しします」
窓の外で、トラックの振動が遠ざかっていった。
織部は立ち上がった。立ち上がった織部の背筋は、舞台に立つヴァイオリニストのように真っ直ぐだった。舞台はもうない。しかし、背筋だけは残っていた。
瀬川と安藤も立った。三人が立った。三人の影が、蛍光灯の下で、床の上に重なった。
公民館の二階の会議室で、三つの怒りが、一つの名前に向かって、収束し始めていた。その名前はまだ、この部屋の空気の中で、声に出されていなかった。明日、織部の口から、その名前が発せられる。
蛍光灯が、ジジジ、と鳴り続けていた。




