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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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再会と決意

 水深は一・二メートル。リハビリ用の浅いプールだった。水面が天井の蛍光灯を反射して、揺れていた。揺れの中に、誰もいなかった。午後四時のプールは、利用者がいない時間帯だった。


 瀬川陽人は、プールサイドに立っていた。


 水着に着替えていた。水着は、引退前に使っていた競技用ではなかった。施設の売店で買った、五千円の水着だった。五千円の水着の着心地は、体に合っていなかった。


 水面を見た。


 水は、青かった。塩素の匂いがした。匂いは、かつて瀬川が毎日嗅いでいた匂いと同じだった。同じ匂いが、同じ鼻孔に入ってきた。


 違うのは、体の反応だった。


 以前は、塩素の匂いを嗅いだ瞬間に、体が準備を始めた。心拍が上がり、肩甲骨が開き、足の指が床を掴み、全身の細胞が水に入る合図を待った。


 今は、匂いだけが来た。体は何も反応しなかった。


 瀬川は、プールの縁に足を乗せた。足先が水面に触れた。


 水は温かかった。リハビリ用のプールは、三十度に設定されている。競技用は二十六度から二十八度。四度の差が、瀬川の足の裏に、違和感として伝わった。


 入った。


 腰まで浸かった。


 水が体を包んだ。包んだ水は、ただの液体だった。体温と違う温度の、粘性のある液体。それだけだった。


 以前は、違った。以前は、水に入ると、体が水の一部になった。水が自分の延長のように感じられた。手のひらで水を押せば、体が前に進む。その因果関係が、筋肉と骨と皮膚の全てで理解できていた。


 今は、手で水を押しても、水が逃げるだけだった。逃げた水は、何も返してこなかった。


 肩まで沈んだ。


 水面が、顎の下まで来た。水の温かさが、首を包んだ。首を包む感覚だけは、競技用プールと同じだった。水温が違っても、水が首を包む感覚は変わらなかった。


 瀬川は、目を閉じた。


 閉じた暗闇の中で、十四歳の夏を思い出した。初めて日本代表の候補に選ばれた夏だった。北海道の合宿所のプールで、五十メートルを泳いだ。タイムは覚えていなかった。覚えているのは、ターンの瞬間に、水が自分を押してくれた感覚だった。水が味方してくれる感覚。


 その感覚が、消えていた。


 目を開けた。開けた目から、涙が出た。涙はプールの水に混じって、見えなくなった。


 一歩、前に進んだ。水が、膝を押した。押し返す水の感触は、抵抗だった。以前は、水の抵抗が体の動きと対話する感覚があった。抵抗を読み取って、体の角度を変えて、水と交渉する。それが泳ぐということだった。


 今は、抵抗だけがあった。対話はなかった。水は黙っていた。


 両手を前に出した。水面に手のひらを浸けた。手のひらで水を掻いた。


 体が前に進まなかった。


 もう一度掻いた。今度は、宙を掻くように腕が空振りした。水は確かにそこにあるのに、手のひらが水を捉えられなかった。掌に力が入らない。入らないのではなく、力をどこに入れればいいかが分からなかった。二十年間、無意識にやっていたことが、意識しようとした瞬間に、消えていた。


 肩まで沈んだ。水面が鎖骨を越えた。


 プールの底に足をつけたまま、しゃがむように沈んだ。水面が顎に触れた。


 触れた水の温度だけが、唯一、変わらないものだった。水温は変わっても、水が首を包む感覚は変わらなかった。


 プールから上がった。


 上がった時に、安藤が、プールサイドの椅子に座っていた。安藤は何も言わなかった。言わない代わりに、タオルを差し出した。


 瀬川はタオルを受け取った。受け取ったタオルで顔を拭いた。拭いた顔は、濡れていた。涙とプールの水の区別はつかなかった。


「泳げなかった」


「見てた」


「水が、ただの水だった」


 安藤は頷いた。頷き方は短かった。安藤には、分かっていた。ボールがただの球体になった感覚を、安藤は知っていた。


 二人は、施設のロビーに戻った。ロビーのソファに並んで座った。窓の外に、秋の夕暮れが広がっていた。


 瀬川のスマートフォンが鳴った。画面に、織部千景の名前が表示された。


「織部さん。瀬川です」


「瀬川さん。一つ、お伝えしたいことがあります」


 織部の声は、穏やかだった。穏やかさの中に、緊張があった。


「真壁という刑事から連絡がありました。灰谷透真の写真を、私たちに見せたいと言っています」


 瀬川は、安藤を見た。安藤が身を乗り出した。


「写真を見せる。つまり——」


「被害者全員で確認するということです。全員が同じ人物を指させれば、捜査の出発点になると」


 瀬川は、スマートフォンを持つ手に力が入った。力が入った手のひらの中央に、白い跡が光った。


「いつですか」


「来週のどこかで。安藤さんにも連絡が行くはずです」


「分かりました」


 電話を切った。


 安藤が聞いた。


「いよいよか」


「ああ。灰谷の顔を、確認する。全員で」


 瀬川は窓の外を見た。夕日が、施設の駐車場を赤く染めていた。赤い光が、二人の影を長く引き伸ばしていた。



  ◇



 同じ日の夕方、東京で。


 久我山悟の会長室のドアが開いた。


「透真。ちょっとええか」


 灰谷透真は、会長室のソファに座った。久我山は向かいのソファに座っていた。いつもの信楽焼の茶碗を持っていた。


 茶碗を一口啜った後で、久我山は言った。


「最近、お前について警察が嗅ぎ回っとるらしいな」


 灰谷の背筋が凍った。凍ったことを、安藤の反射神経が即座にカバーした。表情は動かなかった。


「警察、ですか」


「ああ。警視庁の、何とかいう部署だ。ウチの広報に問い合わせが来とる。灰谷透真について、と」


「心当たりはありません」


 灰谷の声は、安定していた。安定は、本郷の営業トークの声帯制御と、桐生秘書官の根回しの冷静さで作られていた。


 久我山は、茶碗を置いた。置いた音は小さかった。小さい音が、灰谷の鼓膜に、重く響いた。


「透真。ワシは嘘をつく人間が一番嫌いや」


 久我山の目が、灰谷を見た。鋭い眼光だった。この眼光を見た人間は何千人もいたはずだった。その中の多くが、この眼光の前で嘘をつけなかっただろう。


「嘘をついてないんなら、それでええ」


 久我山は立ち上がった。立ち上がる時に、灰谷の肩に手を置いた。手の温度は温かかった。


「お前は、ワシが見込んだ男や。それだけは忘れるな」


 久我山は、部屋を出た。


 部屋に残った灰谷の拳が、テーブルの下で、白くなるまで握りしめられていた。握りしめた手のひらの中央の器が、久我山の背中に向かって、かすかに開きかけた。


 開きかけた器を、灰谷は閉じた。


 今はまだ早い。


 だが、「まだ」の期限が、近づいている気がした。


 警察が嗅ぎ回っている。久我山が気づいている。二つの事実が、灰谷の中で、宮園の思考力によって分析された。分析の結果は明快だった。このまま座していれば、包囲網は完成する。座していなければ——三条院の政治力で捜査を妨害するか。政治家の交渉力は、既に手の中にある。


 灰谷は、会長室を出た。


 廊下を歩きながら、右手の中の器を見た。器は閉じていた。閉じた器の中に、十三人分の才能が詰まっていた。十三人分の才能で、警察の一人や二人は——


 思考を打ち切った。


 打ち切った理由は、打ち切った方が良い思考だったからだった。

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