二つの手帳
特殊対策室のデスクの上に、三つの資料が並んでいた。氷室の統計分析のプリントアウト。黒田恭介が作成した被害者時系列チャートのコピー。そして、朝比奈のクラウドからダウンロードした手帳データのスクリーンショット。
三つの資料の中の赤い線が、全て同じ方向を向いていた。
真壁は、三つの資料を並べて、しばらく黙って見ていた。見ながら、朝比奈の声を思い出していた。「灰谷くんを助けたいんです。捕まえたいんじゃなくて」。
氷室が、モニターの前で、報告を始めた。
「朝比奈さんのタイムラインデータと、黒田氏のチャートと、私の統計分析を重ね合わせました。結果を報告します」
真壁は椅子に座り直した。
「第一に。朝比奈さんのタイムラインは、社内の四名の被害者——本郷、田村、新井、水野——の能力低下と、灰谷の能力上昇の時期が、日単位で一致しています。これは氷室の統計分析では社外被害者で確認済みですが、社内被害者のデータは朝比奈さんが唯一の情報源です」
「社外と社内で、パターンは同じか」
「同じです。接触の翌日から数日以内に、対象者の能力が低下する。同時期に灰谷の能力が上昇する。社内四名と社外九名、合計十三名で同一のパターンです」
真壁は、手帳を開いた。手帳の最新のページに、朝比奈との面会の記録が書いてあった。
「第二に。黒田氏のチャートは、被害者の証言を時系列に並べたものです。黒田氏は独自の取材で、安藤、瀬川、宮園の三名から握手の証言を得ています。この三名の証言と、朝比奈さんのタイムラインは、接触時期が一致しています」
「三つのソースが独立しているのか」
「完全に独立しています。朝比奈さんは黒田氏と面識がありません。黒田氏は氷室のデータにアクセスしていません。三人が独立に調査した結果、同じ結論に到達しています」
氷室は、画面を切り替えた。画面の中に、三つのタイムラインが重ねて表示された。赤い線が三本。三本の線が、ほぼ同じ軌跡を描いていた。
「統計的に、三つの独立した情報源が同一の結論を指す確率は——」
「いい。確率はいい」
真壁は立ち上がった。
「灰谷透真だ。もう疑う余地はない」
氷室は、眼鏡の奥で真壁を見た。
「疑う余地がないことと、立証できることは、別です」
「分かっている」
「灰谷が何を、どうやって、やっているのか。握手で才能を奪うという犯行方法は、科学的にも法的にも説明できません。朝比奈さんのタイムラインも、黒田氏のチャートも、状況証拠の蓄積です。直接証拠はありません」
真壁は、窓のない特殊対策室の壁を見た。壁に掛かったホワイトボードに、灰谷の顔写真がまだ貼ってあった。写真の横の赤い線は、十三本に増えていた。
「法で裁けないなら、まず止める」
「止める方法を、具体的に」
「被害者に写真を見せる。全員が同じ顔を指させれば、灰谷の行動を社会的に制限できる。マスコミに情報を流す必要はない。被害者側の証言だけで、灰谷の周辺の人間——久我山悟や三条院麗華——に警告を出せる」
氷室は、何かを考えていた。考えた後で、言った。
「被害者に写真を見せるなら、全員を同時に集める必要があります。時間差があると、情報が漏れて灰谷が逃げる可能性があります」
「同時に集める場所は」
「安藤さんと瀬川さんには連絡が取れます。宮園さんは入院中ですが、電話での確認は可能です。織部さんは——」
氷室の声が止まった。
「織部千景さんからも、昨日、連絡がありました」
「織部から」
「はい。被害者の自助グループ経由で安藤さんと連絡を取り、灰谷透真の名前を確認したと。サロンの参加者名簿も入手しています。織部さんは、被害者側の情報を整理して、こちらに提供する用意があると言っています」
真壁は、手帳を閉じた。
「被害者が動いている。警察より先に」
「被害者の動きは止められません。止める法的根拠もありません」
「止めたくない。だが、暴走はさせたくない」
真壁は、コートの内ポケットから灰谷の写真を取り出した。写真を、デスクの上に置いた。
「来週。被害者全員に、この写真を見せる。場所は——朝比奈を通して灰谷のスケジュールを確認する。灰谷が東京にいない日を選ぶ」
氷室は頷いた。
「朝比奈さんに、灰谷のスケジュールを聞くのですか」
「ああ。朝比奈は来週、灰谷と食事をする予定だ。食事の日程を聞けば、少なくとも灰谷がその日は東京にいることが分かる。逆に、その日以外を選ぶ」
「朝比奈さんの負担が大きくなります」
真壁は、写真の中の灰谷を見た。見ながら、朝比奈の声を思い出した。「灰谷くんを助けたいんです」。
「朝比奈は、覚悟している。俺が守る」
氷室は何も言わなかった。言わない代わりに、モニターの画面に、被害者の連絡先リストを表示した。安藤圭吾。瀬川陽人。宮園春人。織部千景。四人の名前の横に、電話番号とメールアドレスが並んでいた。
真壁は、写真をポケットに戻した。
「氷室。もう一つ」
「何ですか」
「灰谷が何をしているか——才能を奪っているのか、移動させているのか——そのメカニズムを解明する方法は、あるか」
氷室は、椅子の背にもたれた。
「ありません。現在の科学では、才能の移動という現象は説明できません。ただ——」
「ただ」
「朝比奈さんが言っていたことが気になります。『灰谷くんの話し方に、本郷さんの癖が混じっている』。これは主観的な観察ですが、複数の被害者の能力パターンが灰谷に出現していることが客観的に確認できれば——」
「灰谷のプレゼンの録画がある」
真壁の目が光った。
「久我山グループの新規事業発表会。灰谷がプレゼンした録画が、ネット上に残っているはずだ。あの録画を分析して、灰谷の話し方の中に複数の人間の特徴が混在していることを——」
「音声分析です。話速、ピッチ、フォルマント周波数を解析して、複数の話者の特徴が一人の話者に混在しているかどうかを検証する。これは科学的に検証可能です」
真壁は、初めて笑った。笑いは小さかった。
「やれ」
氷室のキーボードが鳴った。蛍光灯が、一本だけ点滅した。
◇
同じ日の夜、朝比奈沙月は自宅のダイニングテーブルで、手帳「2025-α」を開いていた。
手帳の中の赤い線は、もう真壁に見せた。見せた後で、手帳を閉じた。閉じた手帳を、もう一度開くことは、二度と同じ意味にはならなかった。
真壁に見せる前は、手帳は朝比奈だけの記録だった。朝比奈が一人で抱えていた、灰谷くんへの違和感の集積だった。
見せた後は、証拠になった。
証拠。
その言葉が、朝比奈の胸の中で重かった。灰谷くんを助けたい。そう言った。本心だった。灰谷くんが壊れる前に止めたい。それも本心だった。
だが、手帳を見せたことで、灰谷くんの人生を壊したのは自分かもしれなかった。
スマートフォンの画面に、灰谷からのLINEが残っていた。『大丈夫。水曜の七時でいい?』。灰谷のアイコン——入社式の写真。スーツが大きくて、ネクタイが曲がっている。あの頃の灰谷くんは、声が小さくて、会議で発言するたびに早口になって、でも言っていることは的確で。
今の灰谷くんは、声が通る。早口にならない。言っていることは完璧。完璧すぎる。五人分の話し方が、一つの口から出ている。
朝比奈は、手帳を閉じた。
閉じた手帳を、引き出しにしまった。鍵をかけた。鍵をかけた後で、鍵をテーブルの上に置いた。置いた鍵を見つめた。
来週の水曜に、灰谷くんと食事をする。
食事の間、灰谷くんの目を見られるだろうか。あの目の中に、本郷さんの光と、知らない誰かの光が混じっていることを知りながら、「元気?」と聞けるだろうか。
聞くしかなかった。聞いて、灰谷くんの目の中に、まだ灰谷くんが残っているかどうかを、確認するしかなかった。
朝比奈は、テーブルの上のマグカップを持った。カップの中のほうじ茶は、冷めていた。冷めた茶を一口飲んだ。苦みが、喉の奥を通っていった。




