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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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空っぽの王座

 呼ばれなかったことに、俺は気づいた。気づいた後で、久我山が最近、俺を呼ぶ回数が減っていることにも気づいた。二週間前は毎日だった。先週は三回。今週はゼロ。


 減っている理由を、俺は知っていた。久我山は、俺を警戒し始めていた。五社目の候補リストの件だけではなかった。藤堂の急な老い方。買収案の意思決定が久我山を通さずに進むようになったこと。久我山のネットワークに、久我山より先に俺が接触するようになったこと。


 全部、俺がやったことだった。やったことの自覚はあった。自覚があって、止められなかった。


 久我山グループの取締役会は、もう俺なしでは動かなくなっていた。


 四社目の買収が可決された後、五社目の候補リストを出した。リストの中身は、三つの業界にまたがる中堅企業だった。物流、製薬原料、人材派遣。一見バラバラに見える三社を同時に押さえれば、久我山グループのサプライチェーンに穴がなくなる。その構想は、梶原の政策立案能力と藤堂の経営判断力と宮園の思考力が、俺の中で自動的に組み上げたものだった。


 役員十二人のうち、九人が俺の案に賛成した。残りの三人は棄権した。反対はゼロだった。藤堂が反対しなくなった。反対する力を、俺が奪ったからだった。


 会議の後、廊下で二人の役員が俺に頭を下げた。頭の下げ方は、久我山に対するものと同じ角度だった。


 深夜のオフィスは暗い。


 十七階の戦略室長室に、俺一人がいた。デスクの上に、五社目の買収案の資料が広がっている。資料の数字を、結城の分析力と藤堂の経営判断力が同時に読み取っていた。二つの才能が、俺の中で干渉することなく並列で動いていた。効率は良かった。効率は良いのに、何かが足りなかった。


 足りない何かの正体は、分からなかった。


 椅子の背にもたれた。天井を見た。天井の蛍光灯は消えていた。デスクランプの光だけが、資料の上に落ちていた。


 目を閉じた。


 閉じた瞬間に、記憶の断片が来た。


 サッカーボールが飛んでいた。安藤の少年時代の記憶。ボールは団地の壁に当たって跳ね返り、姉が笑いながら拾いに走る。姉の後ろ姿の、背中のTシャツに汗の染みが——


 記憶が切り替わった。


 ヴァイオリンの弦を指が押さえている。織部の記憶。G線の上で、第三ポジションから第五ポジションに移動する瞬間の、指先の皮膚が弦の上を滑る感覚。祖母の膝の上で初めてこの滑りを知った時の、胸の中の温かさ——


 切り替わった。


 畳の部屋。将棋盤。宮園の祖父の膝の上。歩を持つ指の、木の手触り。祖父が「ここに指すとな、三手で相手の王様が逃げ場をなくすんだ」と言った声——


 三つの記憶が、同時に再生された。同時再生は、以前は夢の中だけで起きていた。今は、目を閉じるだけで来た。覚醒時にも漏れ出し始めていた。


 目を開けた。


 開けた時に、俺の右手が、デスクの上で動いていた。指がピアノの鍵盤を叩くように動いていた。織部の記憶が、手を通して漏れている。前にもあった。風呂の後に、指が勝手にショパンを弾いた夜。


 指を止めた。止めるのに、二秒かかった。前は三秒かかった。短くなっている。慣れたのか、あるいは、漏れ出す量が減ったのか。どちらか分からなかった。


 デスクの上の資料を片付けた。片付けながら、自分の幼少期の記憶を思い出そうとした。


 埼玉の、安アパートの、二階の角部屋。ベランダから見えるのは、隣のアパートの壁だった。壁の色は——何色だった。クリーム色。いや、薄い灰色。思い出せなかった。


 母親が台所で何かを作っていた。作っていたものは——味噌汁。味噌汁の匂い。味噌の匂いは思い出せた。だが、母親の顔は霞がかかっていた。声は聞こえるのに、顔が見えない。


 俺の記憶が、他人の記憶の下に沈んでいた。安藤の団地のグラウンドの方が、俺のアパートのベランダより鮮明だった。織部の祖母の膝の方が、俺の母親の台所より温かかった。


 奪った記憶は、温かかった。


 俺の記憶は、温かくなかった。俺の記憶は、灰色のアパートの壁と、コンビニ弁当の匂いと、兄の背中だけで構成されていた。兄の背中はいつも前にあった。前にある兄の背中を追いかけて、追いつけなくて、追いつけないことを知っていて、それでも追いかけ続けた三十二年間。


 その三十二年間が、霞んでいた。


 「……まだ足りない」


 声が出た。自分の声だった。自分の声のはずだった。


 足りないのは才能ではなかった。足りないのは、俺自身だった。俺自身が、器の底から消えかけていた。消えかけているのに、消えかけている自分を取り戻す方法が分からなかった。分からないから、また喰う。喰えば、さらに消える。


 スマートフォンが鳴った。


 画面を見た。


 灰谷隆一。


 兄だった。


 三度目だった。一度目は先月の深夜。二度目も深夜。今度は、午後十一時だった。深夜ではなかった。兄は時間を変えた。深夜に出ないなら、夜に。


 俺は、画面を五秒間見た。五秒間の中で、兄の顔を思い出そうとした。端正な顔。高い身長。社交的な笑顔。思い出せた。思い出せたが、その顔に対して何を感じるかが、分からなかった。嫉妬か。愛情か。怒りか。三十二年分の感情が、全て同じ灰色になっていた。


 電話に出なかった。


 出なかった後で、テレビをつけた。テレビをつけたのは、沈黙に耐えられなかったからだった。


 画面に、ニュースが映った。


 「Loss症候群の被害者団体が結成され、原因究明を求める記者会見を行いました」


 画面の中に、壇上の人間が映った。


 安藤圭吾だった。


 安藤は、マイクの前に立っている。安藤の顔は、俺がジムで見た顔と同じだった。同じ顔の中で、目だけが違っていた。ジムで見た時の安藤の目には、アスリートの自信があった。今の安藤の目には、自信の代わりに、別のものがある。


 怒りだった。


 俺は、テレビを消した。消した画面に、俺の顔が映った。映った顔の中に、安藤の怒りへの反応は、なかった。


 なかった。


 怒りも、罪悪感も、恐怖も、なかった。空だった。


 空の俺が、まだ足りないと呟いていた。


 デスクの上に、明日の会議の資料が残っていた。資料の一ページ目に、久我山グループの組織図があった。組織図の頂点に久我山悟の名前があった。名前の横に、俺の名前はなかった。俺の名前は、組織図の三段下にあった。


 三段下。


 組織図上の距離と、実際の権力の距離は、もう一致していなかった。実質的には、俺が動かしていた。久我山の名前で、久我山の金で、久我山の信用で。だが、判断の全てが俺を通っていた。


 組織図を見ながら、俺は思った。この図の頂点の名前を、いつか、書き換える日が来る。来させる。


 そのためには——まだ足りない。久我山の才能が。あの男の四十年分の経営の勘と、人を動かす力と、裸一貫から年商三千億を積み上げた大局観。


 今はまだ早い。


 「まだ」が、また来た。「まだ」は俺の中で最も正直な言葉だった。


 オフィスの電気を消した。廊下の非常灯の緑の光が、足元を照らしていた。エレベーターのボタンを押した。ボタンが光った。光の中に、俺の指が映った。指は、十三人分の才能を蓄えた指だった。


 エレベーターの扉が開いた。中は空だった。空のエレベーターに乗った。空の箱の中に、空の俺が立っていた。

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