接点の地図
五個の名前が、さらに絞り込まれていく過程を、氷室は真壁に説明していた。説明の声は事務的だった。事務的であることが、説明の精度を保証していた。
「五名の候補のうち、二名は医療従事者です。職業的に広域の行動圏を持つため、複数被害者との接触記録が多い。しかし、この二名には、接触前後で本人の能力に有意な変化がありません」
「消えるのか」
「消えます。次に、三名目は外食チェーンの地区マネージャー。複数店舗を巡回するため行動圏は広いですが、被害者との接触記録は三名にとどまります。六名以上の被害者と重なる灰谷透真とは差があります」
真壁は、自分のデスクの椅子に座ったまま、氷室の報告を聞いていた。机の上に、灰谷透真の写真が一枚、裏返しに置いてあった。
「四名目は不動産仲介業。被害者との接触記録は五名分。しかし、本人の業績に有意な変化はありません。不動産価格の変動と連動した緩やかな上昇のみ」
「つまり」
「つまり、残るのは一名です」
氷室の画面が切り替わった。画面の中央に、灰谷透真の名前が表示された。
「灰谷透真。三十二歳。港区六本木在住。久我山グループ、グループ戦略室長。被害者九名中六名の行動圏と重複。うち三名——安藤圭吾、瀬川陽人、宮園春人——からは直接証言を得ています。接触前後の能力逆相関スコアは、他の候補の四倍です」
真壁は、机の上の写真を表に返した。灰谷の顔が、机の上で光を受けた。
「四倍」
「はい。灰谷の業績上昇と被害者の能力低下の時間的一致は、他のどの候補よりも有意です。さらに、朝比奈沙月さんのタイムラインデータを組み合わせると——」
「朝比奈」
真壁の声が、鋭くなった。
「朝比奈さんに、連絡を取りました」
氷室の声に、微かな変化があった。変化の正体は、迷いだった。氷室が迷うことは珍しかった。
「朝比奈沙月さん。灰谷の前職——中堅メーカーの経理部に在籍しています。黒田恭介氏の取材で名前が出ていました」
「連絡を取ったのか。俺に相談なく」
「電話で一度だけ。灰谷透真について話を聞きたいと伝えました。まだ何も聞いていません」
真壁は、椅子の背にもたれた。もたれた椅子が、錆びた音を立てた。
「朝比奈は、灰谷の変化を一番近くで見ていた人間だ」
「はい。黒田氏によると、朝比奈さんは独自に灰谷の変化を記録していたようです。手帳に」
真壁は、立ち上がった。
「俺が会いに行く。明日」
◇
翌日の午後、真壁蓮司は、会社の裏手の小さな公園で、朝比奈沙月と向かい合っていた。
公園のベンチに、二人は並んで座った。ベンチの横に、古い滑り台があった。滑り台には子供がいなかった。平日の午後だった。
朝比奈は、ショートカットに丸眼鏡の、小柄な女性だった。眼鏡の奥の目は、穏やかだった。穏やかな目の中に、何か重いものが沈んでいた。
「朝比奈さん。お忙しいところ申し訳ありません。灰谷透真さんについて、いくつかお聞きしたいことがあります」
「はい」
朝比奈の声は、静かだった。静かさの中に、覚悟があった。この質問が来ることを、朝比奈は予期していた。
「灰谷さんとは、どのようなご関係でしたか」
「元同僚です。灰谷くんは営業部で、私は経理部でした」
灰谷くん。
真壁は、その呼び方を手帳の隅に書いた。容疑者を「くん」付けで呼ぶ元同僚。それは、ただの同僚以上の距離だった。
「灰谷さんは、いつ頃から変わりましたか」
朝比奈は、膝の上で手を組んだ。組んだ手の指が、微かに白くなっていた。
「三月の終わり頃です。急に、仕事ができるようになった。話し方が変わった。歩き方が変わった。目の光が変わった」
「具体的に——」
「本郷さんの話し方の癖が、灰谷くんに移ったんです」
真壁のペンが止まった。
「本郷さんの——」
「はい。本郷は灰谷くんの直属の上司でした。パワハラ気質でしたが、営業トークは社内一でした。その本郷の口調——言い回しのクセ、話の組み立て方、間の取り方——が、三月末を境に、灰谷くんの中に混じり始めたんです」
「それだけですか」
「いいえ。田村先輩の交渉の仕方も、新井さんの書類の整理法も、水野さんの数字の覚え方も。全部が、灰谷くんの中に混ざっていました。一人の人間の中に、何人もの人間のスキルが入っているような——」
朝比奈の声が、震えた。震えを止めようとして、深呼吸をした。
「真壁さん。私、手帳をつけていました」
真壁は、ペンを置いた。
「手帳」
「灰谷くんが変わり始めた時期と、同僚が不調になり始めた時期を、時系列で記録していました。四つの項目を対照しました。全部、一致しました」
朝比奈は、バッグの中から、スマートフォンを取り出した。画面に、クラウドのファイルを開いた。手帳の写真だった。赤いペンで引かれた線が、左右の日付を結んでいた。
「見てください」
真壁は、画面を見た。画面の中の赤い線は、朝比奈のタイムライン——灰谷が新しい能力を発揮し始めた日付と、同僚の能力が低下し始めた日付を結んでいた。
全ての線が、一致していた。
真壁は、黒田のチャートを思い出した。黒田が作成した被害者時系列チャートと、氷室の統計分析と、朝比奈のタイムライン。三つの独立した情報源が、同じ結論を指していた。
「朝比奈さん。このデータを、正式に提供いただけますか」
朝比奈の目が、真壁を見た。目の中に、葛藤があった。葛藤の正体は、真壁には分かった。灰谷を裏切ることになる。
「灰谷くんを助けたいんです。捕まえたいんじゃなくて」
声は小さかった。小さい声の中に、本心があった。
「このまま続けたら、灰谷くん自身が壊れる。私は——私は、壊れる前の灰谷くんを知っているから」
朝比奈は、スマートフォンの画面を、真壁のほうに差し出した。
真壁は、画面の中の赤い線を、もう一度見た。赤い線の先に、灰谷透真がいた。
「朝比奈さん。あなたのデータが、証拠の出発点になります」
朝比奈は頷いた。頷いた後で、もう一つ言った。
「真壁さん。灰谷くんに、私がデータを渡したことは——」
「お伝えしません」
「お願いします」
朝比奈は立ち上がった。立ち上がる時に、眼鏡を指で押し上げた。押し上げた指が、微かに震えていた。
「灰谷くんと、来週、食事をする約束があるんです」
真壁の目が、朝比奈を見た。
「食事」
「はい。久しぶりに。灰谷くんから誘われて」
真壁は何も言わなかった。言わない代わりに、朝比奈の横顔を見ていた。横顔の中に、灰谷を裏切った罪悪感と、灰谷を救いたい願いが、同時にあった。その二つは矛盾していなかった。矛盾していないことが、朝比奈沙月という人間の本質だった。
公園の滑り台の上を、秋の風が通り過ぎた。風に揺れた銀杏の葉が一枚、ベンチの横に落ちた。
朝比奈は、会社に戻っていった。戻っていく背中を、真壁はベンチに座ったまま見ていた。背中が角を曲がって消えた後で、真壁は手帳を開いた。
手帳に、書いた。
『朝比奈沙月。灰谷を「灰谷くん」と呼ぶ。手帳のタイムラインは四項目、全て一致。黒田のチャートと氷室のデータとの三点照合で、灰谷透真が確定。灰谷はまだ知らない——この女性が、三つ目の線を引いたことを』
手帳を閉じた。
閉じた手帳を、内ポケットにしまった。しまう時に、灰谷の写真に手が触れた。写真の中の灰谷は、複数の人間の光を目に宿して、真壁を見ていた。
真壁はベンチから立ち上がった。
灰谷透真。
法で裁けるかどうかは分からない。だが、この男を止めなければならない。三つの独立した線が、同じ一点を指している。統計が示し、記録が裏付け、証言が確認した。
真壁は車に向かって歩いた。歩きながら、氷室に電話をかけた。
「氷室。朝比奈のデータを得た。三点照合で、灰谷が確定した。次のステップに移る」
「次のステップとは」
「被害者全員に灰谷の写真を見せる。全員が同じ顔を指させる。それを出発点にして、法的な枠組みを作る」
電話の向こうで、氷室のキーボードの音が聞こえた。氷室が、すでに被害者への連絡リストを作り始めていることを、真壁は知っていた。




