名前のある影
並んでいたのは茶だけだった。菓子はなかった。織部は、来客に菓子を出す気力がなかった。三週間前なら、当然のように出していただろう。三週間前の自分が、遠い人間のように思えた。
安藤圭吾が、ソファの端に座っていた。安藤の隣に、瀬川陽人がいた。二人の体格は似ていた。どちらもアスリートの骨格だった。違うのは、肩の上に乗っている筋肉の量だった。瀬川のほうが、より削がれていた。
テーブルの上に、A4のコピー用紙が一枚、置いてあった。紙の上に、サロンの参加者名簿のコピーが印刷されていた。
「この名簿です」
織部が言った。声は静かだった。
「三条院麗華のサロン。翠雲荘で開かれた集まりの参加者名簿。マネージャーの田辺に頼んで、主催者側の正式名簿を取り寄せました」
安藤は、名簿を手に取った。名簿の中に、十二人の名前が並んでいた。
五行目に、「灰谷透真」の名前があった。
「灰谷透真」
安藤の声が、低くなった。
「間違いない。俺がジムで会った男の名前だ」
瀬川が、名簿を覗き込んだ。名前の横に、「久我山グループ グループ戦略室長」の肩書きが書いてあった。
「ジムの体験入会の時は、肩書きはなかったんだろう」
「なかった。ただの会員だった。あれが半年前だ。半年で、久我山グループの戦略室長か」
瀬川は、名簿から目を離した。離した目は、織部を見ていた。
「織部さん。あなたの場合は、どうだったんですか」
織部は、茶碗を持った。持った茶碗の中の液面が、微かに揺れた。指が震えていた。
「レセプションで握手をしました。演奏の後の。灰谷さん——灰谷透真は、私の演奏を褒めてくれました。それで、握手をしました。四秒くらいだったと思います」
「四秒」
「はい。握手の瞬間に、何かが流れた感覚がありました。流れた方向は、私の中から、彼の手のひらへ」
安藤が頷いた。
「俺もだ。十五秒の握手で、足の裏から何かが抜けていく感覚があった。でもその時は疲労だと思った」
瀬川も頷いた。
「俺は十秒だった。水泳の慈善イベントの握手会。手のひらが冷たかった」
三人の視線が、名簿の上の「灰谷透真」の四文字に集まった。
「宮園さんにも確認しました」
織部が言った。
「入院中の宮園さんに電話しました。銭湯で会った男の特徴を聞きました。三十代前半、痩せ型、目だけが光っていた。灰谷透真の写真を送ったところ、『この人に似ている。断定はできないが、外見的特徴は一致する』と」
瀬川は、ソファの肘掛けに手を置いた。手のひらの中央の白い跡が、午後の光に照らされていた。
「四人だ。俺と安藤と宮園と織部さん。四人全員が、同じ男に触れられた後に、才能を失った。これは偶然じゃない」
「偶然ではありません」
織部の声は、穏やかだった。穏やかさの奥に、鉄があった。
「ですが、証明する方法がありません。握手で才能を奪うという行為を、どうやって裁判所に説明するのか。物的証拠はありません。医学的にも説明できない」
安藤が、両手を組んだ。
「警察は動いてる。真壁って刑事が、俺たちに灰谷の写真を見せたがっている。写真確認で、全員が同じ顔を指させば——」
「それでも足りないのよ」
織部が遮った。遮り方は柔らかかったが、内容は鋭かった。
「全員が同じ人物を指さしたとしても、その人物が何をしたかを立証できなければ、逮捕も起訴もできない。握手しただけの人間を、法律で裁く方法はありません」
リビングが静まった。
静まった中で、織部のストラディバリウスのケースが、部屋の隅に置いてあった。ケースの上に、三週間分の埃が積もっていた。
◇
瀬川が立ち上がった。
「法で裁けないなら、俺たちが追い詰める」
「追い詰める、とは」
「灰谷の行動パターンを調べる。いつどこにいて、誰と会っているか。次の被害者が出る前に、止める」
安藤が頷いた。
「サロンの参加者名簿。ジムの会員記録。慈善イベントの来場者リスト。全部を照合すれば、灰谷がどこで獲物を探しているかが分かる」
織部は、茶碗を置いた。
「私には、サロンの人脈があります。三条院麗華の周辺の情報は、ある程度追えます」
瀬川は窓の方を見た。窓の外に、東京の街が広がっていた。
「織部さん。一つ、聞いていいですか」
「何でしょう」
「あなたは、何がしたいんですか。灰谷を捕まえたいのか。それとも——」
瀬川の目が、織部を見た。
織部は、しばらく黙っていた。黙った時間は、五秒だった。五秒の間に、織部の目の中で何かが動いた。動いたものは、穏やかさの下に隠されていた芯だった。
「取り返したい、のかもしれません。でも、まず、止めたい。これ以上、被害者を出したくない」
瀬川は頷いた。頷き方は、短かった。
三人は、名簿のコピーを一枚ずつ持って、織部のマンションを出た。エレベーターの中で、安藤が小声で言った。
「灰谷のSNSを見つけた。最近の写真がある。半年前とは顔が変わってる」
瀬川が、安藤のスマートフォンの画面を覗き込んだ。画面の中に、灰谷透真の顔があった。
瀬川の顔が、凍った。
「こいつだ。間違いない。慈善イベントで握手した男だ」
安藤は画面を消した。
「帰ったら朝比奈って人に電話しよう。灰谷と同じ会社にいた人だ。黒田さんが名前を教えてくれた」
エレベーターのドアが開いた。三人はロビーに出た。
◇
同じ日の夕方、灰谷透真のスマートフォンが鳴った。
画面に表示された名前は、「朝比奈」だった。
灰谷は、タワーマンションのリビングで、その名前を三秒間見つめた。三秒間の中で、器の中の全ての才能が、一瞬だけ静かになった。安藤の反射神経も、宮園の思考力も、梶原の政策立案能力も、三条院議員の交渉力も。全てが、朝比奈の名前の前で、沈黙した。
電話に出た。
「もしもし」
「灰谷くん? 朝比奈だけど」
朝比奈の声は、変わっていなかった。変わっていない声の中に、灰谷透真がまだ灰谷透真だった頃の空気が残っていた。経理部の、数字と伝票に囲まれた、静かな空気。
「久しぶり。元気?」
「元気だよ。テレビで見たよ、灰谷くん。久我山グループのプレゼン。すごいね」
「ありがとう」
「すごいね……でも、元気?」
同じ質問を、二度した。二度目の「元気?」は、一度目とは意味が違った。一度目は挨拶だった。二度目は、質問だった。
「元気だよ。朝比奈は?」
「うん。私は相変わらず。経理部で数字を見てる」
朝比奈の声が、少しだけ震えた。震えは、電話の回線の中で、ほとんど消えていた。ほとんど消えていたが、灰谷の中の安藤の聴覚が、それを拾った。
「来週の水曜、大丈夫だった? 食事の件」
「ああ。大丈夫だ。七時でいいか」
「うん。楽しみにしてる」
電話が切れた。
切れた後のスマートフォンの画面に、朝比奈のアイコンが映っていた。アイコンは、入社式の写真だった。スーツが大きくて、ネクタイが曲がっている。
灰谷は、アイコンを五秒間見つめた。五秒後に、画面を閉じた。
閉じた画面に、リビングの照明と、灰谷の顔が映った。顔の中に、先ほどまであった議員の笑みは、消えていた。消えた跡に、何があるかは、灰谷自身にも分からなかった。
朝比奈の才能は、奪わない。
その決意は、まだ生きていた。生きていることが、灰谷透真の最後の証拠だった。




