駒と棋士
赤坂の料亭の個室で、三条院麗華の向かいに座った男は、六十代の、銀髪の、背筋の伸びた政治家だった。目は麗華に似ていた。似ている中に、三十年分の権力の層が重なっていた。
「灰谷さん、でしたか」
三条院議員の声は、低かった。低い声の中に、何千回もの国会答弁で鍛えられた、響きの制御があった。
「はい。久我山グループの灰谷です。本日はお時間をいただき——」
「娘が気に入ったそうだ。それだけで十分だ」
議員は、箸を取った。料亭の椀物を一口啜った。啜り方に、無駄がなかった。
俺は、議員の向かいに座っていた。麗華は、議員の隣だった。麗華の目が、俺を見ていた。目の中のメッセージは、「うまくやりなさい」だった。
麗華の計画は明確だった。灰谷透真を、次期衆院選の候補者として、父親に推薦する。灰谷を政界に送り込み、久我山グループの資金力と灰谷の能力を使って、三条院家の影響力を拡大する。
悪くない計画だった。
だが、俺には別の計画があった。
「灰谷さん。政治に興味はあるかね」
「人が動く仕組みに興味があります。経営も政治も、本質は同じだと思っています」
議員の目が、微かに動いた。動きの意味は、「面白い答えだ」だった。梶原から奪った政策立案能力が、議員の表情の変化を即座に読み取っていた。
「仕組み、か。若い人は仕組みと言う。ワシらの世代は、人脈と言った。どちらも同じだがな」
議員は、酒を注がれた。注いだのは仲居だった。仲居の手つきは、翠雲荘の仲居と同じ流儀だった。
「灰谷さん。麗華から聞いている。あなたは、久我山会長をたった半年で唸らせた。それは事実か」
「久我山会長が寛容だからです」
「謙遜は政治家の道具だ。使い方を知っているなら、悪くない」
会話は四十分続いた。
四十分の間に、議員は俺の政策知識を三回試した。三回とも、俺は梶原の能力で正確に答えた。議員は、箸を止めた。
「灰谷さん。あなたは、官僚出身かね」
「いいえ。民間一筋です」
「民間で、ここまでの政策理解は珍しい」
議員の目が、初めて、真剣になった。真剣な目の中に、計算があった。計算の内容は、「この男を候補者にした場合の票の動き」だった。
俺の右手が、テーブルの下で、かすかに開いた。
「三条院先生。一つだけ、伺ってもよろしいですか」
「何かね」
「先生の交渉力は、政界随一と聞いています。どうすれば、あのような力がつくのですか」
議員は、微笑んだ。微笑みの中に、自尊心があった。
「四十年だ。四十年間、毎日、人と会い、人を動かし、人に動かされた。交渉は才能ではない。経験の蓄積だ」
「素晴らしいですね」
俺は、席を立った。席を立つ時に、議員の肩に触れた。肩を叩く動作——「ご指導ありがとうございます」という、政治家同士がよくやる、親密さの演出。
二秒。
交渉力が入ってきた。票読みの感覚が入ってきた。四十年分の人脈の記憶の断片が入ってきた。どの議員が誰に弱みを握られているか。どの委員会で誰が発言権を持っているか。政界の力学の地図が、頭の中に展開された。
同時に、議員の弱みも入ってきた。三年前の献金問題。処理を誤ったが揉み消した件。揉み消しに使ったルートの名前。
俺は、席に戻った。
「先生。実は、一つだけ、ご相談がございます」
麗華の目が、俺を見た。目の中に、不安があった。台本にない展開だった。
「来月の審議会で、ヘルスケアデータ解析に関する規制緩和の答申が出る予定です。審議会の委員の一人が、厚労省寄りの立場で反対に回る可能性があります」
議員の目が、変わった。変わった理由は、俺が審議会の内部情報を知っていたからだった。
「その委員は、先生のかつての支援者でいらっしゃいますね」
議員の手が、杯を持ったまま、止まった。
「灰谷さん。あなたは——」
「お力添えをいただけませんか。審議会の前に、一度お話しいただくだけで」
議員は、杯を置いた。置いた音が、個室の中に小さく響いた。
麗華の顔から、色が消えた。麗華の計画では、この会食は「紹介」だった。灰谷を議員に売り込み、次回の会食で具体的な話に入る——それが麗華のスケジュールだった。
俺は、そのスケジュールを一回分飛ばした。
議員は、俺を見た。見た目の中に、三つの感情が混じっていた。怒り。興味。そして、恐怖。
「分かった。その委員には、話をしておく」
俺は頭を下げた。
頭を下げながら、麗華を見た。麗華の目の中の計算が、書き換わっていた。「使える駒」から「制御不能な怪物」へ。だが、もう遅い。俺が審議会の件で議員を動かした以上、麗華の政界工作は俺なしでは動かなくなった。
料亭を出た後、タクシーの中で、俺は議員の記憶の断片を整理した。
三年前の献金問題。揉み消しのルート。委員の名前。全てが、俺の手の中にあった。駒は俺ではなかった。駒は、三条院家だった。
タクシーの窓に映った俺の顔が、暗い笑みを浮かべていた。笑みの形は、俺のものではなかった。議員の笑みだった。四十年間、人を操り続けた人間の笑みだった。
俺にはその資格がある。
資格という言葉が、自然に、頭の中に浮かんだ。以前は「資格がある」と言い聞かせていた。今は、言い聞かせる必要がなかった。資格は、既にあった。
◇
深夜、三条院麗華は自宅のリビングで、ノートパソコンの画面を見つめていた。
画面には、灰谷透真の経歴が表示されていた。前職の中堅メーカーの社員データベースから引き出した情報だった。入手経路は、三条院家の人脈の末端——人事コンサルタント会社の役員——経由だった。
灰谷透真。入社年月。配属先。営業成績の推移。上司の評価コメント。全てが、平凡だった。平凡どころか、平凡の下だった。
「可もなく不可もなく」。上司の評価欄に書かれた文字を、麗華は三度読んだ。
可もなく不可もなくの男が、半年で、三条院議員の横に座って審議会の委員の名前を出した。
人間にできることではなかった。
麗華は、キーボードの上で指を止めた。止めた指の先に、もう一つのウィンドウがあった。ウィンドウの中に、灰谷と接触した後に業績が急落した元同僚のリストがあった。本郷誠一。田村。新井。水野。
四人が同時期に能力を失い、灰谷が同時期に能力を獲得した。
Loss症候群のニュースを、麗華は見ていた。見ていて、灰谷との接点を考えなかったわけではなかった。考えた上で、利用できると判断した。それが三条院麗華だった。
だが、今夜の会食で、計算が狂った。灰谷は駒ではなかった。灰谷は、麗華の父を、一回の会食で手駒にした。
麗華は、スマートフォンを手に取った。画面に、警察への匿名通報の電話番号が表示されていた。番号は、麗華が二週間前にメモしたものだった。
番号を見つめた。
通報すれば、灰谷は終わる。だが、灰谷が終われば、麗華の裏工作も終わる。翠雲荘のサロンの運営費。非公開の政治資金パーティー。三条院家の名前で動かした補助金の流れ。全てが、灰谷を通じて露出する。
灰谷と運命共同体になっている。
そのことに気づいたのは、会食が終わった車の中だった。気づいた時には、もう遅かった。
麗華は、スマートフォンをテーブルの上に置いた。置いた画面の中で、匿名通報の電話番号が、薄く光っていた。
「平社員から一年でここまで。人間にできることじゃない」
声は、自分に向けたものだった。
リビングの窓の外に、東京の夜景が広がっていた。夜景の中のどこかに、灰谷透真がいた。灰谷の手の中に、父の交渉力があった。父の交渉力は、三条院家の最大の武器だった。その武器が、今夜、灰谷の手に渡った。
麗華は、ノートパソコンを閉じた。閉じた画面に、自分の顔が映った。映った顔は、父の顔によく似ていた。似ている顔の中で、目だけが、笑っていなかった。




