統計が語る真実
名前の横に、数字が並んでいた。接触回数。接触時期と発症時期の相関係数。職業的アクセス範囲スコア。三つの変数を多変量分析にかけた結果だった。
特殊対策室の蛍光灯は、相変わらず一本だけ切れていた。切れた蛍光灯の隣の一本が、微かに点滅していた。二本目も寿命が近いのだろう。庶務に交換を依頼する気力が、この部屋の誰にもなかった。
真壁が、氷室の隣に立っていた。コーヒーの紙カップを持っていた。カップの中のコーヒーは冷めていた。三十分前に自販機で買ったものだった。一口も飲んでいなかった。
「二十三名か」
「二十三名です。被害者の行動圏と重なる生活範囲を持ち、発症前三十日以内に複数の被害者と同じ場所にいた記録がある人物」
氷室は、モニターの画面をスクロールした。スクロールしながら、マウスを止めた。止めた場所に、一つの名前があった。
「この二十三名を、さらに絞り込みます。接触回数と発症の時間的近接性で重み付けをかけると——」
氷室のキーボードが鳴った。画面の中で、二十三の名前が再配列された。上位五名が、赤い枠で囲まれた。
「五名に絞れました」
真壁は、赤い枠の中の五つの名前を見た。
上から三番目に、「灰谷透真」があった。
「灰谷が三位か」
「接触回数では一位です。被害者九名中六名の行動圏と灰谷の行動圏が重なっています。ただし、時間的近接性のスコアでは二位。一位と二位は、別の人物——医療関係者です。複数の病院を巡回する職業なので、行動圏が広い。職業的に多くの人間と接触する」
「だが、そいつは灰谷みたいに経歴が飛んでないだろう」
「飛んでいません。過去十年間、同じ職場です」
真壁は、冷めたコーヒーを一口飲んだ。コーヒーは苦かった。苦さの中に、自販機の金属の味が混じっていた。
「氷室。この五名の中で、接触前後で本人の能力が急上昇した人間は何人だ」
氷室の指が止まった。止まった指が、再びキーボードの上で動いた。
「それは——新しい変数です。被害者の能力低下と逆相関する、容疑者の能力上昇。そのデータを取得するには——」
「社内の業績評価、昇進記録、公開されている実績。取れるものから取れ」
氷室は頷いた。頷いた後、十五分間、キーボードだけが鳴った。
十五分後。
氷室の画面に、グラフが一つ表示された。
グラフの横軸は時間だった。縦軸は二つあった。赤い線が被害者の能力低下を示していた。青い線が、ある一人の人物の能力上昇を示していた。
二つの線は、完全に逆相関していた。
赤い線が下がるたびに、青い線が上がっていた。下がるタイミングと上がるタイミングが、数日の誤差で一致していた。
「真壁さん」
氷室の声が、いつもと違った。いつもの事務的な冷静さの中に、何かが混じっていた。驚きではなかった。確信だった。
「この人物は、被害者が能力を失うのと同時に、本人の能力が上昇しています。統計的に、偶然とは言えません」
「誰だ」
氷室はモニターを真壁のほうに向けた。
画面の中に、灰谷透真の名前があった。青い線の上端に。
「灰谷透真。前職の業績評価は可もなく不可もなく。今年三月を境に、業績が垂直に上昇。四月に退職。五月にカルテシア・ヘルスデータ取締役就任。七月に久我山グループ戦略室長。全ての上昇のタイミングが、被害者の能力低下と一致しています」
真壁は、グラフの二本の線を見た。赤と青。下がる線と上がる線。被害者と加害者。
「奪っている」
「データ上は、移動です。被害者の能力が減少し、灰谷の能力が増加する。統計的に有意な逆相関です」
「移動じゃない。奪っている。才能を」
氷室は、モニターから目を離さなかった。
「真壁さん。統計は因果関係を証明しません。相関関係のみです」
「わかっている。だが——」
真壁は、モニターの画面に手を置いた。置いた手の下で、灰谷透真の名前が光っていた。
「動機は何だ」
真壁の声は、自分自身に向けられていた。
「才能を奪う能力があるとして、なぜ使う。なぜ、次から次に」
氷室は答えなかった。氷室のモニターの画面が、灰谷の二枚の顔写真を表示した。半年前と今。何者でもない男と、何者にもなれる男。
真壁は、二枚の写真を交互に見た。見ながら、何か——不快な共感のようなものが、胸の底で動いたのを感じた。何者にもなれなかった男が、何者にでもなれる力を手に入れたら。
振り払った。
「氷室。黒田のブログのアクセスログの件はどうなった」
「黒田恭介氏から連絡がありました。ブログのアクセスログに、久我山グループのIPアドレスからの閲覧が複数回確認されたと」
「灰谷が見ている」
「可能性は高いです。黒田氏は、アクセスログを保存し、信頼できる弁護士に預けたと言っています」
真壁は、コーヒーのカップをゴミ箱に捨てた。
「氷室。法的根拠がなくても、この男を止めなければならない」
「止める方法を、具体的に」
「まず、被害者に灰谷の写真を見せる。全員が同じ顔を指させれば、それが出発点になる」
氷室は、モニターの前で、しばらく黙っていた。黙った後で、灰谷の写真をプリンターに送った。
プリンターが動き出した。紙の出てくる音が、特殊対策室の中に響いた。紙の上に、灰谷透真の顔が印刷されていた。
真壁は、印刷された写真を手に取った。写真の中の灰谷は、久我山グループの役員紹介ページの写真だった。目が光っていた。光の中に、複数の人間の光が重なっていた。
真壁は、写真を内ポケットにしまった。
◇
同じ日の夜、神保町の三畳の事務所で、黒田恭介はパソコンのモニターを見つめていた。
画面には、ブログのアクセスログが表示されていた。アクセス元のIPアドレスの一覧。その中に、同じIPアドレスからの閲覧が、七回、繰り返されていた。
七回。一週間で七回。毎日一回ずつ、同じ記事を読んでいる人間がいた。
IPアドレスを逆引きした。結果は、「kugayama-group.co.jp」のドメインに紐づいていた。
久我山グループ。
黒田は、椅子の背にもたれた。もたれた椅子が、ぎしりと鳴った。三畳の事務所は狭かった。デスクと椅子と本棚で、部屋の面積の八割が埋まっていた。残りの二割は、足の踏み場だった。
灰谷透真は、久我山グループにいる。その久我山グループのIPアドレスから、黒田のブログが読まれている。灰谷本人が読んでいるとは限らない。だが、灰谷に近い人間が読んでいる可能性は高い。
黒田は、アクセスログのスクリーンショットを撮った。撮ったスクリーンショットを、USBメモリにコピーした。USBメモリを封筒に入れて、封筒の表に弁護士の名前を書いた。
大学時代の同級生で、今は渋谷で小さな事務所を構えている弁護士だった。明日の朝、速達で送る。万が一、黒田に何かあった場合の保険だった。
保険が必要だと判断したのは、IPアドレスの件だけが理由ではなかった。先週、黒田のマンションの郵便受けに、知らない番号からの不在着信が三件あった。三件とも、折り返すと、「お掛けになった電話番号は現在使われておりません」。不在着信の番号は、三件とも違った。
偶然かもしれなかった。偶然ではないかもしれなかった。
黒田は、Lossノートを開いた。ノートの表紙には、マジックで「Loss」と書いてあった。表紙の文字は、最初に書いた時より太くなっていた。ペンで何度も上からなぞったからだった。
ノートの最新のページに、新しいメモを書いた。
『久我山グループIPからブログへのアクセス7回(日次)。灰谷本人か近辺の人物。ログ保存、弁護士に預託。真壁刑事に報告済み。三本の線が並走中。合流の時が近い』
ペンを置いた。
黒田は、デスクの上の缶ビールを開けた。プルタブを引く音が、三畳の事務所に響いた。ビールを一口飲んだ。ビールは温かった。冷蔵庫に入れ忘れたビールだった。温いビールの苦さが、喉の奥を通っていった。
モニターの画面を見た。画面の中のアクセスログの数字が、蛍光灯の光を受けて、静かに光っていた。数字の向こうに、灰谷透真がいた。
黒田は、温いビールをもう一口飲んだ。




