音のない世界
織部千景は、自宅マンションのリビングで、テレビを消したまま、ストラディバリウスのケースを見つめていた。ケースは閉じていた。一週間前から、開けていなかった。
開けられなかった。
マネージャーの田辺が、朝から三度、電話をかけてきていた。三度目の電話で、織部はようやく出た。
「織部先生。記者が玄関の前に四人来ています。コメントを——」
「何も話さないでください」
「分かりました。ですが、チケット代の返金処理と、違約金の件で、弁護士から——」
「全て、田辺さんに任せます」
電話を切った。
切った後、織部は自分の手を見た。指は長かった。三十年間ヴァイオリンを弾き続けた指の形は、まだそこにあった。爪の形。第一関節の角度。弦を押さえるための筋肉の隆起。全てが残っていた。
残っているのに、弾けなかった。
正確には、弾くことはできた。指は動く。弓は持てる。弦に当てれば音が出る。音程も取れる。楽譜も読める。
音楽だけが、聞こえなかった。
織部は、先週、かかりつけの耳鼻科に行った。聴力検査。正常。次に脳神経外科。MRI。正常。神経伝導検査。正常。血液検査。正常。
医師は首を傾げた。
「織部さん。検査結果は全て正常です。聴覚も、神経も、脳も、何の問題もありません」
「音楽が聞こえないんです」
医師は、ペンを止めた。
「音は聞こえるのに、音楽が聞こえない。どういう意味か、教えていただけますか」
織部は、診察室の壁に掛けられた時計を見た。時計の秒針が動いていた。秒針が刻む音が聞こえた。カチ、カチ、カチ。等間隔の音。以前なら、秒針の音の中に、微かなリズムの揺らぎを感じ取れた。金属の疲労による微小な速度変化。その揺らぎが、織部にとっては音楽の一部だった。
今は、カチ、カチ、カチ。等間隔の音。それだけだった。
「音を音楽として構成する機能が、消えたんです。音の物理的な情報は入ってきます。でも、それを組み合わせて意味にする——何と言えばいいか——音楽にする部分だけが、なくなった」
医師は、少しの間、黙った。
「似たような症例を、最近いくつか見ました」
織部の目が、医師を見た。
「似たような症例?」
「ええ。分野は違いますが、高度な専門技能を突然失った患者さんが、この二ヶ月で三人。全員、検査上は正常です。脳に器質的な異常はないのに、特定の認知機能だけが消失している」
医師はカルテの画面をスクロールした。
「Loss症候群という名前が、ニュースで使われ始めています。ご存知ですか」
織部は知らなかった。知らなかったが、その名前を聞いた瞬間に、体の中で何かが動いた。
帰り道、タクシーの中で、窓の外を見た。信号が赤になって、タクシーが止まった。交差点の向こうに、楽器店のショーウィンドウが見えた。ショーウィンドウの中に、チェロが一台、立てかけてあった。
以前なら、チェロの形を見ただけで、音が脳内で鳴った。弦の太さから推測される倍音の豊かさ。ボディの曲線から予想される共鳴の深さ。楽器の形と音が、織部の中では不可分だった。
今は、チェロが見えた。木でできた、人間の腰ほどの大きさの物体。それだけだった。
タクシーが動き出した。
自宅に着くまでの十五分間、織部は一度も音楽のことを考えなかった。考えなかったのではなく、考えようとしても、そこに何もなかった。考える対象が消えていた。三十年間、目を覚ましている間の全ての時間を音楽に使ってきた人間にとって、音楽のない時間は、空白ではなく、虚無だった。
◇
自宅に戻った織部は、パソコンを開いた。
Loss症候群。検索結果は膨大だった。ニュース記事。テレビの特集の文字起こし。SNSの投稿。陰謀論。心理学者のコメント。
その中に、一つのブログ記事があった。
『Loss症候群——被害者全員に共通する「接触」の謎』
織部は、記事を最後まで読んだ。読んだ後、ブラウザの検索窓に、新しいキーワードを入力した。
「Loss症候群 自助グループ」
検索結果の中に、NPO法人が運営する自助グループの連絡先があった。電話番号と、代表者の名前が書いてあった。
織部は電話をかけた。
電話に出たのは、NPOの職員だった。
「はい、Loss症候群家族・被害者支援の会です」
「織部千景と申します。ヴァイオリニストの——」
「織部先生ですか」
職員の声が、変わった。変わった理由は、織部の名前を知っていたからだった。カーネギーホール公演のキャンセルは、ニュースで報じられていた。
「参加者の中に、安藤圭吾さん、という方はいらっしゃいますか」
「安藤さんは——少々お待ちください」
二分後、電話の向こうから、別の声が聞こえてきた。
「安藤です」
若い男の声だった。
「織部千景です。初めてご連絡します。私も——」
織部は、言葉を選んだ。選ぶ必要はなかった。この男は、同じ経験をしている。
「私も同じです。あの男に、全てを奪われました」
電話の向こうで、安藤が息を呑んだ。呑んだ息が、三秒間、戻らなかった。
「あの男。あの男を、知っているんですか」
「名前は知りません。レセプションで握手した男です。三条院麗華のサロンで。サロンの参加者名簿に、その男の名前が残っているはずです」
「名簿」
安藤の声に、熱が入った。
「織部さん。俺たちは——俺と瀬川と宮園で、その男を探しています。名前は灰谷透真。灰谷を、知っていますか」
灰谷透真。
織部は、その名前を、頭の中で繰り返した。レセプションで握手した男の顔が浮かんだ。痩せた顔。目だけが、異様に光っていた。
「灰谷透真」
織部は、メモ帳にその名前を書いた。書いた文字を見た。見ながら、リビングの隅に置いてあるストラディバリウスのケースを見た。
ケースは閉じていた。一週間前から、開けていなかった。
「安藤さん。お話を聞かせてください。全て」
電話は四十分続いた。
安藤は話した。ジムでの握手。十五秒。翌日から足が動かなくなったこと。瀬川陽人との出会い。瀬川も握手で奪われたこと。宮園春人も。全員、同じ男。同じ手。
織部は、メモ帳に書いた。書きながら、頭の中で、三条院のサロンの参加者名簿を思い出した。名簿は田辺が管理している。田辺に頼めば、コピーが手に入る。
電話を切った後、織部は窓の前に立った。夜の東京が見えた。光が散らばっていた。光の一つ一つが、誰かの人生だった。その中の何人が、あの男に触れられて、全てを失ったのだろう。
マネージャーの田辺に、メールを送った。
『保険会社からの調査対応、お願いします。それと、先月のサロンの参加者名簿のコピーを取り寄せてください。私のファイルではなく、主催者側の正式な名簿を』
送信ボタンを押した。
押した後で、ストラディバリウスのケースに目が行った。ケースの蓋は閉じていた。蓋の上に、薄く埃が積もり始めていた。一週間分の埃だった。
織部は、ケースに手を伸ばした。伸ばした手を、途中で止めた。止めた理由は、開けたら弾いてしまうからだった。弾いたら、音が出る。音は出るが、音楽は聞こえない。その事実をもう一度確認することに、耐えられるかどうか、分からなかった。
手を下ろした。
代わりに、メモ帳を開いた。メモ帳の中に、「灰谷透真」の四文字があった。
四文字を見つめた。見つめながら、織部の中で、何かが変わり始めていた。絶望の底に、冷たい水脈が通ったように、一筋の意志が生まれていた。
復讐という言葉は、まだ使わなかった。織部千景は、そういう言葉をすぐには使わない人間だった。代わりに、「知りたい」と思った。あの男が何をしたのかを。どうやったのかを。そして、取り返す方法があるのかどうかを。
窓の外の夜景が、音のない世界の風景だった。




