経営権という名の略奪
長テーブルの端に久我山が座っていた。テーブルの反対の端に、俺が座っていた。十二人の役員が、両側に六人ずつ並んでいた。
俺の前に置かれた資料は、三件の買収案だった。どれも中堅企業だった。一件目はAI画像解析のスタートアップ。二件目は医療機器メンテナンスの老舗。三件目は地方の物流会社。三件に共通点はなかった。共通点がないことが、俺の戦略だった。バラバラに見える買収の裏に、梶原から奪った政策立案能力が描いた地図があった。
「灰谷室長。一件目の買収案について説明を」
議長の声で、俺は立ち上がった。
立ち上がる時に、テーブルの中ほどに座っている藤堂の目が見えた。藤堂は六十代の古参役員だった。角張った顔に、額の白髪が三本。目は鋭かった。鋭さの中に、猜疑心があった。
俺のことを調べている。
前回の経営会議で、藤堂が秘書に「灰谷」「経歴書」と耳打ちしたのを、俺は安藤の聴覚で聞いていた。
プレゼンを始めた。三件の買収案を、二十分で説明した。宮園の思考力で分岐図を構築し、結城の分析力で数字を精密に配置し、本郷の営業トークで役員の視線を一点に集めた。
二十分後、拍手が起きた。
拍手の中で、藤堂だけが手を動かしていなかった。
「異議があります」
藤堂の声は、低く、安定していた。四十年間の経営の現場で鍛えられた声だった。
「灰谷室長。この買収案は、数字上は問題ない。しかし、一つだけ、聞かせてほしい」
「どうぞ」
「あなたの経歴書を読みました。前職は、中堅メーカーの営業部の、平社員です。入社から退職まで、社内表彰歴ゼロ。評価は可もなく不可もなく。それが半年前の話です。半年で、なぜ、これだけの案件を動かせるのですか」
会議室の空気が、凍った。
凍った空気の中で、久我山は何も言わなかった。久我山の目は、俺と藤堂の間を、静かに見ていた。
「藤堂さん」
俺は、微笑んだ。微笑みの中に、田村の交渉術と本郷の営業スマイルが混ざっていた。
「実績のない人間を、久我山会長が選んだ。その事実が、私の答えです」
「それは答えになっていない」
「なっていますよ。久我山会長の人を見る目が、四十年間で一度も外れなかったことは、この場にいる全員が知っている。その久我山会長が選んだ。それが実績です」
藤堂の顔が、微かに歪んだ。歪みの中に、苛立ちがあった。苛立ちの正体は、論理で返されたことではなかった。久我山の名前を盾にされたことだった。
久我山が、口を開いた。
「藤堂」
「はい」
「明日の朝までに、灰谷の案と同等の買収案を、お前が作ってみろ。それで判断する」
藤堂の顔から、血の気が引いた。引いた理由は、藤堂自身が一番よく知っていた。藤堂の経営判断力は確かだった。確かだが、俺の案と同等のものを一晩で作れる力は、持っていなかった。
会議が終わった後、廊下で藤堂とすれ違った。
「藤堂さん。先ほどのご指摘、勉強になりました」
俺は右手を差し出した。
「いえ、こちらこそ」
藤堂は、反射的に手を握った。握手は、ビジネスの場では断れない。断れば、負けを認めることになる。
三秒。
藤堂の経営判断力が、流れ込んできた。
四十年分の現場の知恵。数字の裏にある人間関係を読む能力。倒産しかけた子会社を三つ立て直した経験の蓄積。リスクの匂いを嗅ぎ分ける嗅覚。
重かった。今まで喰った才能の中で、藤堂のものが一番重かった。重さの正体は、時間だった。四十年間の時間が、才能の中に圧縮されていた。
手を離した。
「来月の取締役会も、よろしくお願いします」
藤堂は頷いた。頷いた藤堂の目が、一瞬だけ、焦点が合わなくなった。合わなくなった時間は、〇・五秒だった。〇・五秒後に、藤堂は普通の顔に戻った。
普通の顔に戻った藤堂は、明日の朝、会議室で、自分の案が前日のものとまるで違うことに気づくだろう。気づいた後で、老害という言葉が、周囲から聞こえてくるだろう。
廊下の窓から、夕方の赤坂のビル群が見えた。ビルの谷間に西日が差し込んでいた。西日の色を、織部の審美眼が自動的に分析した。カドミウムオレンジ。チタニウムホワイトを二割混ぜた色。分析は俺が命じたものではなかった。入れた才能が、俺の許可なく動いていた。
エレベーターに乗った。十六階から十七階まで、十二秒。十二秒の間に、藤堂の記憶の断片が一つだけ浮かんだ。三十年前の、東京郊外の小さな工場。取引先が倒産して連鎖倒産しかけた朝。銀行に頭を下げに行く車の中で、藤堂が窓の外を見ていた。見ていた窓の外に、桜が咲いていた。桜を見ながら藤堂は何かを決めた。決めた内容は、記憶の断片からは読み取れなかった。
読み取れなくても、その記憶の中に、四十年分の経営者の覚悟が凝縮されていることは分かった。俺はそれを三秒の握手で奪った。覚悟ごと。
◇
翌週から、俺の買収案は次々と可決された。
反対する役員はいなかった。藤堂は、取締役会で的外れな発言を繰り返すようになった。周囲の視線が変わった。「藤堂さん、最近おかしくない?」「年齢的なものかな」。小声の会話が、俺の安藤の聴覚に入ってきた。
俺は何も言わなかった。
三週間で、中堅企業三社の買収が完了した。四社目の交渉が始まった。五社目の候補リストが、俺のデスクの上にあった。
久我山グループの実質的な経営権は、俺の手の中にあった。久我山の名前で、久我山の金で、久我山の信用で動いているが、判断の全てが俺を通っていた。
久我山は、俺の手腕に目を細めていた。
目を細めた久我山の表情の中に、満足と、もう一つ、別のものがあった。別のものの名前を、俺は知っていた。
不穏。
「透真」
木曜の夕方、久我山が俺を会長室に呼んだ。会長室のソファに座った久我山は、茶を飲んでいた。茶碗は信楽焼の、厚手の、無骨なものだった。
「三社目の買収、良かった。数字の運び方が、ワシの若い頃に似とる」
「恐縮です」
「恐縮はいらん。褒めとるんや」
久我山は茶碗を置いた。
「ただな」
「はい」
「最近、ワシの知らんところで話が進んどることがある」
俺の背筋が、微かに硬くなった。硬くなったことを、久我山は見ていたのかもしれなかったし、見ていなかったのかもしれなかった。
「五社目の候補リスト。ワシに相談がなかった」
「失礼しました。来週の定例でご報告するつもりでした」
「定例で、か」
久我山は、俺を見た。鋭い眼光だった。年商三千億の会社を裸一貫で築いた人間の目だった。
「透真。お前は、ワシが思っていたより、もっと遠くまで行きそうやな」
その言葉は、褒め言葉だった。褒め言葉のはずだった。
だが、久我山の目の中に、かすかな影があった。影の名前は、警戒だった。
俺は微笑んだ。微笑みながら、右手の器が久我山の背中に向かって、ごく微かに開きかけた。開きかけた器を、俺は閉じた。
今はまだ早い。
「まだ」という言葉が、頭の中で響いた。「まだ」は「奪わない」ではない。「今は」奪わない、だ。
久我山のいない廊下を歩きながら、俺は自分の右手を見た。手のひらの中央の器は、閉じていた。閉じた器の奥で、藤堂の四十年分の経営判断力が、すでに他の才能と混ざり始めていた。




