万能の器
大学教授の学術知識。外交官の語学力。料亭の名人の味覚。名前は覚えていなかった。顔も覚えていなかった。覚えているのは、才能の味だけだった。
教授の知識は、図書館の匂いがした。論文の余白に書き殴られた仮説の断片と、学会発表の前夜にホテルの机で数式を書き直した記憶が、一緒に入ってきた。外交官の語学力は、三つの言語が同時に流れ込んできた。フランス語の条件法と、アラビア語の語根と、中国語の声調が、俺の舌の上で混ざった。料亭の名人の味覚は、舌の上に地図を広げるようなものだった。昆布の旨味の等高線と、鰹節の酸味の稜線が、一枚の地図の上に重なった。
どれも、美味かった。
美味いという感覚が、以前より鈍くなっていた。鈍くなっているのに、止められなかった。最初に本郷の営業力を奪った時の、あの稲妻のような快感は、もうなかった。今あるのは、重い食事の後の満腹感に似た、持続する鈍い充足だった。充足なのに足りない。足りないから、また喰う。
中毒だった。自覚していた。自覚していることが、何の歯止めにもならないことも、自覚していた。
◇
三条院のサロンで、俺は美術品の真贋鑑定を依頼された。
サロンの壁に掛けられた日本画を、十二人の出席者の前で、二分間見た。
「これは贋作です」
出席者が、ざわめいた。
「根拠を」
出席者の一人——骨董商だった——が、声を上げた。
「筆致の速度が違います。この絵の主線は、本来の作者の呼吸に合わせた一息の線であるはずですが、右下の署名に近づく部分で、筆圧が一定になっています。つまり、署名を模倣する意識が、無意識に筆の速度を制御した。本人なら、署名は呼吸の延長で、速度に変化が出ません」
沈黙が落ちた。
骨董商が、絵の右下を見た。見た後で、俺のほうを見た。
「灰谷さん。美術を学ばれたことは」
「いいえ」
嘘ではなかった。学んだのではなく、奪ったのだ。織部の審美眼が、俺の目を通して、筆致の呼吸を読み取っていた。
三条院が、出席者たちの反応を見ていた。出席者たちの目は、俺に対する警戒から、敬意に変わっていた。三条院の目は変わらなかった。三条院の目は、最初から、俺を道具として見ていた。道具としての価値が上がっただけだった。
翌週のサロンでは、教授を喰った。奥座敷の隅で名刺交換をした。握手は二秒。教授の頭の中にあった専門書五百冊分の構造化された知識が、索引付きで俺の中に収まった。教授は翌日、自分の研究室で、自分の論文を読み返して首を傾げることになるだろう。俺は知っていた。俺はそれを見ないことも知っていた。
外交官は、パーティーの二次会で喰った。三条院が紹介してくれた。握手の時に、三カ国語が同時に入ってきた。俺の舌が勝手に「Enchanté」と呟いたのを、外交官は社交辞令と受け取って笑った。
料亭の名人は、サロンに仕出しを届けに来た板前だった。三条院が「腕がいいのよ」と紹介した。俺は「お椀の出汁が素晴らしい」と言って手を握った。名人の味覚が入ってきた瞬間、俺の口の中で、翠雲荘の日本酒の味が組み替わった。甘味、酸味、旨味の配分が、三次元の座標として認識された。世界が一つの膳の上に載った。
◇
タワーマンションに帰った。
深夜だった。リビングの灯りをつけずに、ソファに座った。
窓の外に、東京の夜景があった。夜景は以前と同じだった。同じはずだった。けれど、今夜の夜景は、違って見えた。
ビルの窓の光の一つ一つに、色の温度があった。蛍光灯の青白さ。白熱灯の橙。LEDの均質な白。織部の審美眼が、光の一つ一つの色温度を、自動的に分類していた。分類は止められなかった。
風呂に入った。
湯船に浸かりながら、俺は自分の手を見た。右手の、手のひらの中央の器が、かすかに脈打っていた。脈のリズムは、俺の心拍と合っていなかった。別のリズムだった。
誰のリズムかは、分からなかった。
湯船の中で、目を閉じた。
閉じた暗闇の中で、俺の口が、勝手に動いた。
知らない言語が、唇から零れた。
フランス語だった。外交官の記憶が、眠りかけの脳から漏れ出していた。文章は途中で途切れた。途切れた後に、今度は中国語の単語が一つ、浮かんだ。浮かんだ単語の意味は、「帰りたい」だった。
誰の帰りたい、だ。
俺は目を開けた。湯船の水面に、俺の顔が映っていた。映った顔は、俺の顔だった。俺の顔のはずだった。
鏡を見た。浴室の壁の鏡に映った顔は、灰谷透真の顔ではなかった。
灰谷透真の顔が何だったかを、俺は正確に思い出せなくなっていた。半年前の社員証の写真を見れば分かる。だが、写真を見なくても自分の顔を思い出せるはずだった。その「はず」が、怪しくなっていた。
「器が空だからこそ、何でも入る」
老人の言葉が、浮かんだ。公園のベンチで、俺に警告した老人の言葉。
器は空だった。だから何でも入った。入れすぎて、器の底に沈んでいた元の俺が、見えなくなっていた。
だが、それがどうした。
元の俺に、何があった。中堅メーカーの営業部の平社員。上司にパワハラされ、同期に先を越され、兄と比較されるだけの三十二年間。あの俺に戻りたいか。
答えは出ていた。
戻りたくなかった。
右手が、ソファの肘掛けの上で、ピアノを弾くように動いた。
動いた理由は分からなかった。俺はピアニストの才能を奪っていない。動いているのは、織部の記憶だった。織部は幼少期にピアノも弾いていたのだろう。その指の動きの記憶が、俺の手を通して漏れ出していた。
指を止めようとした。止まらなかった。三秒間、指は勝手に動き続けた。弾いていたのはショパンの何かだった。曲名は、織部の記憶の中にあるはずだったが、俺にはまだ索引がついていなかった。
三秒後に、指が止まった。止まった瞬間、俺は自分の手を見た。自分の手だった。灰谷透真の手だった。
灰谷透真の手で、織部千景のピアノを弾いていた。
◇
風呂から上がって、リビングに戻った。
ソファに座った。
テーブルの上に、今朝の日経新聞が置いてあった。新聞の一面に、「Loss症候群、被害者数推定三十名超 政府、対策本部設置へ」の見出しがあった。三十名。俺が直接奪ったのは十数名だが、それぞれの周辺で連鎖的に崩壊が起きていた。上司の才能を奪えば部署が機能不全に陥り、その部署に依存していた別の人間が不調に陥る。奪った才能の影響は、俺の手が届かない範囲まで広がっていた。
記事を読んだ。読んでいる途中で、記事の内容に興味を失った。失った理由は分からなかった。以前なら、自分に関する記事は最後まで読んだ。今は、途中で文字が記号に見えた。文字の意味が、頭に入らなかった。教授の知識があるのに、日本語の新聞が読みづらい。
疲労のせいだと思った。
テーブルの上のスマートフォンを見た。画面に通知が一件あった。
朝比奈沙月からのメッセージだった。
『灰谷くん、来週の水曜、大丈夫? 前に約束した食事の件。——朝比奈』
俺は、メッセージを読んだ。読んだ後、五秒間、何もしなかった。
朝比奈。
朝比奈の名前を読んだ時に、俺の中で、一つだけ、動いたものがあった。動いたものは、器の中のものではなかった。器の外に、まだ残っている、灰谷透真自身の何かだった。
何かの正体は、分からなかった。罪悪感かもしれなかった。懐かしさかもしれなかった。あるいは、この人間だけは巻き込みたくない、という、最後の防壁だったのかもしれなかった。
『大丈夫。水曜の七時でいい?』
返信を打った。打った指は震えなかった。
鏡の中の男は、知らない言語を呟く男だった。
スマートフォンの画面の中の名前は、灰谷透真がまだ灰谷透真だった頃に繋がっている、最後の糸だった。




