音楽の死
翠雲荘の奥座敷の、さらに奥にある離れだった。離れの床の間に、掛け軸の代わりに、一枚の油絵が掛けてあった。油絵の中の女性は、ヴァイオリンを構えていた。その女性と同じ顔をした人間が、今、離れの中央に立って、弓を動かしていた。
織部千景。
元という肩書きがまだ似合わない。つい先月まで、世界のステージに立っていた人間の体は、まだ音楽のために作られた形をしていた。
俺は、離れの壁に寄りかかって、織部の演奏を聴いていた。聴きながら、自分の器が、反応しているのを感じていた。
今までの獲物は、全て実用的だった。営業力。交渉術。運動能力。思考力。行政手腕。どれも、社会を登るための道具だった。
織部の音楽は、道具ではなかった。
音が、部屋の空気を変えていた。空気が変わるというのは比喩ではない。音の振動が、壁と畳と天井の木に当たって跳ね返り、部屋全体が一つの楽器になっていた。俺の宮園の思考力が、音の構造を分析しようとした。分析は途中で止まる。分析できないものがあった。
それが、才能だった。
テクニックは分析できる。音程も、リズムも、弓の角度も。だが、テクニックの向こう側にある何か——音を音楽にしている何かが、分析の外にあった。
演奏が終わった。
拍手が起きた。サロンの出席者は八人だった。八人の中で、三条院だけが拍手をしていなかった。三条院は微笑んでいた。微笑みの意味は、「使える駒がもう一つ増えた」だった。
「素晴らしかったです」
俺は、演奏後のレセプションで、織部に近づいた。織部は、ヴァイオリンケースを閉じたところだった。ケースの中のヴァイオリンは、暗い赤色をしていた。ストラディバリウスだと、三条院が教えてくれていた。
「ありがとうございます」
織部の声は、静かだった。演奏の激しさとは正反対の声だった。穏やかで、丁寧で、芯があった。
「織部さんの音楽を、初めて生で聴きました。CDとは全く違いますね」
「それは、嬉しいです。録音は、空気を切り取るだけですから。生演奏は、空気を作るものなので」
空気を作る。
俺の中の何かが、その言葉に、反応した。反応は、器の反応ではなかった。もっと深い場所の、もっと古い場所の反応だった。
「握手していただけますか。今日の演奏の感動を、直接お伝えしたくて」
俺は右手を差し出した。
織部は、一瞬だけ、俺の目を見た。見た目の中に、何かが通った。通ったものの名前は、分からなかった。
織部の手が、俺の手を握った。
四秒。
音楽が流れ込んできた。
音楽という言葉は正確ではなかった。流れ込んできたのは、音を音楽に変える知覚だった。世界が、音の構造体として、再構成された。
離れの中の空気の震え。エアコンの低い唸り。遠くの車のエンジン音。全てが、和声の中に位置づけられた。全てが、楽譜の上の音符として読めるようになった。
同時に、織部の記憶の断片が流れ込んだ。
暗い部屋。小さな膝の上に、ヴァイオリンがある。ヴァイオリンは子供用の四分の一サイズ。隣に座っているのは、白髪の女性。祖母だった。祖母の膝に頭をもたせかけて、ヴァイオリンの弦を一本だけ弾く。弦が震える。震えが空気に伝わる。祖母が「綺麗な音ね」と言う。言われた瞬間の、胸の中の温かさ。
温かさが、俺の器の中に落ちた。
手を離した。
「ありがとうございます。本当に、素晴らしい演奏でした」
織部は微笑んだ。微笑みの中に、先ほどまであった光が、ごくわずかに、翳っていた。翳りに織部は気づいていなかった。
俺は、離れの窓から、庭の池を見た。池に月が映っていた。月の光が、水面で揺れていた。揺れの周波数が、ニ長調の第五倍音に近いことが、今の俺には分かった。
美しかった。
生まれて初めて、美しいという言葉の意味が、本当に分かった。
今まで俺が見ていた世界は、情報の集合体だった。数字と力関係と利用価値で構成された世界。その世界の中に、今、もう一つの層が重なった。色が深くなった。空気の動きに質感が加わった。離れの天井の木目に、年輪が刻んだ時間の厚みが見えた。
器の中で、織部の才能が、先に入れた才能たちと、静かに混ざり始めていた。宮園の思考力が音の構造を分析し、安藤の身体感覚がリズムを肉体で捉え、織部の審美眼がそれらを一つの風景に統合した。
タクシーに乗った。
車内で、スマートフォンの音楽アプリを開いた。織部千景のアルバムを再生した。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。
今の俺の耳には、織部の弓圧の変化、呼吸のタイミング、感情のグラデーションが、全て読み取れた。三十年の修練の層が、一つ一つ、透けて見えた。この録音がどれほどの到達なのかが、分かった。そして、もう二度と生まれない演奏であることも。
俺が奪った。奪ったことを、後悔していなかった。
後悔していないことを確認して、俺は音量を上げた。
◇
同じ夜。
織部千景は、タクシーの中で、指先が震えていることに気づいた。
震えは微かだった。運転手には見えない程度の、ごく小さな震えだった。疲れだろう、と思った。演奏の後はいつもこうなる。弓を持つ筋肉が興奮から冷めていく過程で、指先が震える。
自宅マンションに着いた。
リビングに入って、コートを脱いで、ヴァイオリンケースを開けた。ストラディバリウスの暗い赤が、室内灯の光を受けて、深く光った。
弓を取った。
弓を弦に当てた。
引いた。
音が出た。
音は出た。
ラの音。四四〇ヘルツ。音程は正確だった。
けれど。
音の向こう側に、何もなかった。
音は聞こえているのに、音楽が聞こえなかった。弦が震えて空気を揺らしている。その物理現象は認識できる。だが、物理現象の先にあるはずの——音が音楽になる瞬間の、あの跳躍が、なかった。
もう一度弾いた。ド。レ。ミ。ファ。ソ。ラ。シ。ド。
スケール。子供が最初に練習するスケール。祖母の膝の上で、四分の一サイズのヴァイオリンで、最初に弾いたスケール。
音は全て正確だった。
音楽は、どこにもなかった。
弓が、床に落ちた。
落ちた弓を、拾おうとした。拾おうとした手が、震えていた。さっきよりも大きく。震えは指先だけではなかった。手首から、肘へ、肩へ、伝わっていた。
膝が折れた。
リビングの床に、膝をついた。ストラディバリウスを胸に抱えた。抱えた体は、音楽を奏でるために三十年間かけて作り上げた体だった。体は残っている。指は動く。耳は聞こえる。
奪われたのは、それらを音楽に変える、たった一つのものだった。
声が出た。
「聞こえない」
声は自分のものだった。
「音は聞こえるのに、音楽が聞こえない」
レセプションで握手した男の顔が、浮かんだ。灰谷透真。三条院の招待客。握手の瞬間に、何かが流れた感覚があった。流れた方向は、織部から、男へ。
あの男が。
あの男に。
織部の指が、ストラディバリウスの弦の上に置かれた。弦は冷たかった。冷たさが、指先から腕を通って、胸の中の空洞に落ちた。
空洞の底に、祖母の膝の温かさの残像だけが、まだ微かに、残っていた。
スマートフォンが鳴った。マネージャーからだった。
「織部先生。来月のカーネギーホール公演のリハーサル日程が届いています。来週の水曜から——」
「少し、考えさせてください」
電話を切った。
切った後、リビングの床に座ったまま、織部は自分の手のひらを見た。手のひらに、あの男の指の温度が残っている気がした。気のせいだった。残っているのは温度ではなく、何かが抜けた後の空白だった。




