被害者たちの声
三十脚のうち、二十二脚に、人が座っていた。残りの八脚は空だった。空の椅子の方が、目立った。来るはずだった人間が来なかった椅子は、その人間の不在そのものの形をしていた。
安藤圭吾は、円の端に座っていた。
隣の席の女性が、紙コップのコーヒーを持っていた。コーヒーの色は薄かった。給湯室のインスタントコーヒーを、規定量の半分しか入れなかったのだろう。
「では、次の方。お話しいただける方は」
司会は四十代の女性だった。NPOの職員らしかった。声は穏やかだったが、穏やかさの奥に、慣れがあった。何十回もこの場を回してきた人間の慣れだった。
安藤の三つ隣に座っていた男が、手を挙げた。
「高橋と申します。料理人を三十二年やっていました」
高橋の手は、厚かった。三十二年分の火傷と切り傷と、出汁の匂いが染み込んだ手だった。
「味が、わからなくなりました」
集会室が、静まった。
「正確に言うと、味はわかるんです。塩の量も、砂糖の量も、舌は感じている。でも、それが美味いのか不味いのかが、わからない。料理を作っても、自分が何を作りたかったのかが、思い出せない」
高橋は、自分の手のひらを見た。
「医者には異常なしと言われました。脳のMRIも、味覚検査も、全部正常。でも、俺の料理は、もう、俺の料理じゃない」
安藤は、高橋の手を見ていた。見ながら、自分の足の裏を思い出していた。ボールを蹴る感覚が消えた夜のことを。夜のグラウンドで、膝をついたことを。
高橋の後に、ピアニストが話した。四十代の女性で、髪を後ろで一本に束ねていた。
「指は動きます。楽譜も読めます。でも、弾いている音が、私の音じゃないんです。誰か知らない人が弾いているみたいで。生徒に教えようとしても、教えるべきことが、頭の中から消えている。教え方を忘れたんじゃない。教えるべき何かが、なくなった」
ピアニストは膝の上で指を組んだ。組んだ指は、安藤から見ても綺麗な形をしていた。形は残っているのに、中身が抜けている。安藤の足と同じだった。
プログラマーは三十代の若い男で、話し始めてすぐに黙った。黙った後で、もう一度口を開いた。
「コードを書こうとすると、前は見えていた構造が見えないんです。変数の名前は思いつくのに、全体の設計が。前は寝ている間に解が降りてきたのに」
画家は何も言わなかった。手を挙げたが、立ち上がった瞬間に、首を横に振って座り直した。安藤は画家の目を見た。目の中に、色がなかった。比喩ではなく、目の光に、かつてあったはずの彩度が落ちているように見えた。
全員の話が似ていた。能力は消えたが、身体は正常。医者には異常なしと言われる。社会的には「スランプ」として処理される。
スランプではなかった。奪われたのだ。
安藤は、それを知っていた。知っていて、この場で言えなかった。「犯人がいる」と言えば、全員の目が変わる。絶望が怒りに変わる。怒りの向かう先がまだ確定していない以上、言うべきではなかった。
会合が終わった後、参加者は三々五々と帰っていった。高橋が最後に残って、使い終わった紙コップを一つずつゴミ袋に入れていた。三十二年間、厨房を片付けてきた手の動きで。その動きだけは、奪われていなかった。
◇
自助グループの会合が終わった後、安藤は施設の駐車場に停めた軽自動車に乗った。
車の中で、スマートフォンを見た。瀬川からメッセージが来ていた。
『明日、施設に来る。話がある。——瀬川』
安藤は、メッセージを二度読んだ。瀬川とは、前にスポーツクリニックで会った。あの時は互いの手のひらを見せ合って、何も言えなくなった。
翌日の午後、安藤は施設のロビーで瀬川を待った。
ロビーには消毒液の匂いが薄く漂っていた。窓から午後の日差しが入っていた。奥の廊下から、リハビリ器具の金属音が、時々、聞こえてきた。
瀬川が来た。
瀬川陽人は、安藤が覚えているよりも痩せていた。競泳選手の広い肩幅はそのままだったが、肩の上に乗っている筋肉の量が違った。抜けた、というより、萎んだように見えた。
「安藤」
「瀬川」
名前を呼び合っただけだった。呼び合った後に、二人は、ロビーの端のソファに並んで座った。
瀬川は、しばらく何も言わなかった。言わない代わりに、ロビーの壁に貼ってあるリハビリプログラムの張り紙を見ていた。張り紙には、水中歩行のイラストが描いてあった。
「あの男の名前、覚えてるか」
瀬川の声は低かった。
「灰谷。安藤、お前が教えてくれた名前だ」
「ああ。灰谷だ」
「宮園にも確認した。銭湯で触れた男の特徴が、全部一致する」
安藤は頷いた。
「警察も動いてる。真壁って刑事が、この前、俺たちに会いに来た」
「知ってる。俺のところにも連絡があった」
瀬川は、右手を開いて、自分の手のひらを見た。手のひらの中央に、白い跡がまだ残っていた。引退会見の時と同じだった。消えないのだ。あの男に触れられた場所だけが、元に戻らない。
「安藤」
「何だ」
「プールに入った」
安藤は、瀬川の横顔を見た。横顔の中で、瀬川の目が、窓の外の遠くを見ていた。
「施設のプール。二十五メートル。リハビリ用の浅いやつだ」
「入れたのか」
「入った。腰まで浸かった」
瀬川は、手のひらを閉じた。
「水が、ただの水だった。体温と違う温度の液体。それだけだった。前は、水に入ると、自分の体の延長みたいに感じた。水が受け入れてくれる感覚があった。今は、ない」
安藤は何も言えなかった。言えない代わりに、自分の右足の裏を、靴の中で、床に押し付けた。ボールの感触は、もう、どこにもなかった。
「もう泳げなくていい」
瀬川の声が変わった。変わった先の声には、決意があった。決意の色は暗かった。
「あの男を見つけることが、俺の新しいレースだ」
安藤は、瀬川の目を見た。瀬川の目の中に、引退会見の日に見た涙はなかった。涙の代わりに、乾いた光があった。光の正体は、復讐だった。
「一人じゃ動けない。宮園は病院だし、俺たちには情報がない」
「黒田っていうライターがいる」
「知ってる。お前が話をしたライターだろう。あいつと、警察と、俺たちで動くしかない」
瀬川は立ち上がった。立ち上がった瀬川の体は、かつてのアスリートの体だった。筋肉は落ちても、骨格の中に刻まれた二十年分の動きの記憶は、まだ消えていなかった。
「もう一人、連絡を取りたい人間がいる」
「誰だ」
「織部千景。ヴァイオリニスト。カーネギーホールの公演をキャンセルした人だ。テレビで見た。あの人もLoss症候群だ」
安藤は眉を上げた。
「音楽家か」
「ああ。それも、たぶん俺たちと同じ原因で」
瀬川は窓の方を見た。窓の外に海は見えなかった。施設の駐車場と、その向こうの住宅街が見えるだけだった。
「俺たちだけじゃない。将棋の宮園も、音楽の織部も、同じことを言っている。みんな、あの男に触れられた後に、全部を失った」
安藤は、パイプ椅子に座ったままの瀬川の隣に立った。二人の影が、午後の日差しの中で、床の上に並んでいた。
影は細かった。かつての二人の影は、もっと太かったはずだった。
「俺も行く」
安藤の声は、静かだった。
「俺も、新しいレースを走る」
瀬川は、安藤を見なかった。見ない代わりに、一度だけ、小さく頷いた。
頷いた瀬川の手のひらの中央の白い跡が、窓からの光を受けて、薄く、光っていた。




